【角川書店】
『だからドロシー帰っておいで』

牧野修著 



 大抵の人たちにとって、現実というのはできれば直視したくないもののひとつだと言える。とくに、物事が自分の思ったとおりに進んでくれないようなときや、大きな逆境に立たされているような状況のときは、現実はことのほか当人に重くのしかかってくるものである。たとえば、台所の掃除をしていて、たまたま目につかない部分を覗いてみたときに、そこがとんでもなく汚れていたとする。ある人はこんなふうに思うかもしれない。「見なかったことにしよう」と。だが、それはけっきょくのところ問題の先延ばしでしかなく、根本的な解決となるわけではない。少なくとも見てしまった以上、その汚れはまぎれもない現実のものとして確定してしまっているのだ。

 ある事実に対して、とりあえず「なかったことにしよう」とする心理は、けっして無意味なことではない。あまりに厳しすぎる現実と向き合わなければならないときに、人はときとして一時的な避難場所を必要とする場合がある。それは、けっして現実から逃げているわけではなく、とりあえず時間と距離を置くことで、いずれは向き合わなければならない問題をしっかりと把握し、決意を固めるために必要な措置でもあるわけだが、これはたとえば台所の汚れのように、「どうすれば解決できるのか」という点が比較的はっきりしている場合にこそ有効であって、たとえば未来に対する漠然とした不安や、日頃あまり意識することのない小さなストレスの積み重ねが引き起こすイライラ、あるいは病院に行くほどのものではないちょっとした疲れや体調不良といったものについては、その全体像や原因そのものがはっきりしていないがゆえに、直視することも解決することも容易なことではない。だが、掃除をサボっていればいずれ目に見える形で現われてくる埃のように、ふだんは忘れてしまっているからといって、けっしてなくなってしまうものでもない。そんなたぐいの現実というものも、たしかにこの世には存在する。

「とうとうわかったの」
「何が」
「私はドロシーなの」
「ドロシー……がいじんさん?」

 本書『だからドロシー帰っておいで』に書かれている物語の構造は、大きくふたつにわけることができる。ひとつはごく普通の中年主婦である喜多野伸江を主体とする世界、そしてもうひとつは、彼女以外の人物を主体とする三人称の世界である。そして、このふたつの世界のあいだには、同じ出来事をとらえているはずなのに、にもかかわらずどうしようもない乖離が存在する。言ってみれば、それは妄想と現実の世界の乖離だ。そしてその大きな落差、ギャップこそが、本書の読みどころのひとつとなっている。

 喜多野伸江は夫とその義母、そして高校生になる息子をもつ主婦である。二十歳で結婚し、とくに苦労らしい苦労もなく、家族はいずれも健康で、とくに問題らしい問題も起きていない。少なくとも彼女はそのように思い込んでいる。だが、それは彼女の周囲で起こるさまざまな不快な出来事に対して、自身の要領の悪さを言い訳に「なかったこと」にしているから他ならない、という状況が見えてくる。物語は、不意の来客のためにビールを買いに出かけた伸江が、いつのまにかまったく知らない別世界に飛ばされてしまい、そこで敵に追われたり仲間と出会ったりしながら、数々の困難を乗り越えてオズノ王のいる地を目指すという、それこそ「オズの魔法使い」を髣髴とさせる冒険ファンタジーが展開されるのだが、それはあくまで伸江の妄想世界のなかでのことであり、現実世界の彼女は猟奇的連続殺人鬼として、ホームレスや腐乱した手首や痴呆老人を引きつれて逃亡中、ということになってしまっている。

 ごくふつうの主婦であったはずの喜多野伸江が、いつのまにか飲み込まれてしまった妄想世界――そのなかで彼女は、小さい頃に父親に虐げられてきた過去の記憶を思い出し、引っ込み思案で自分を責めてばかりいる、どうしても好きになることのできなかった自分自身と向き合うことで、本来の自我を取り戻していくという感動的な魂の遍歴、精神的な成長を遂げている。だが、その感動的な物語の代償として、現実世界で何人もの人間を殺害するというとんでもない皮肉が生じてしまう。そして、そんな彼女に息子を殺された大和田と、彼を支援する被害者団体の会が、復讐のために彼女の足どりを追うという展開が付随する。ここで重要なのは、たとえば妄想世界や現実世界でのストーリーがどのような結末を迎えるか、ということではなく、現実に息子を殺された大和田が、他ならぬ現実世界において「復讐」という、これまた現実的な目的のために突き進んでいくのに対して、とくに現実的な問題に直面していないはずの伸江が、いともたやすく狂気の世界へと足を踏み入れてしまった、という不条理にこそある。

 前にも述べたように、人はとくに大きな困難や厳しい現実を前にして、ときに「一時避難」を必要とする場合がある。本書の場合、息子を殺された大和田のとった行動がそれにあたる。息子を正しく育てることができずに家から追い出してしまい、あげく死なせてしまったという負い目から、自分を責めていた彼は、現実からの一時避難によって、いまだ逃亡中という犯人への怒りと復讐という目的を見つけ、ふたたび現実を生きることになる。それが良いことなのか悪いことなのかは置いておくとして、大和田が体験したような大きな悲劇は、たしかに悲劇ではあるが、ぞれは同時にこれまでの何気ない日常をひっくり返してしまうような劇的な効果をともなっている、と言うこともできる。どんな悲劇も、それがまぎれもない現実のものである以上、いつかは悲劇の当事者も現実の世界へと戻っていくことになる。いつまでも悲劇のヒーロー、ヒロインでいられるほど、人間の心はロマンチックではいられないのだ。

 だが、そうした劇的な現実的困難が起こることなく、ともすると永遠に何気ない、そしてこのうえなく平凡で代わり映えのしない日常生活がつづいていくのではないか、そしていつのまにか老人となって、自分のしたいことも見つけられないまま死んでしまうのではないか、という思いは、とくに現実的な解決方法が見つけられないがゆえに、ともするとこのうえない恐怖へと変貌する。本当は、そんな何気ない日常をつづけていくこと自体が大変なことであるのだが、何気ない日常であるがゆえに、その繰り返しを何度となくつづけていくことが、たとえば麻薬のようにその人の心を、現実をまぎれもない現実として認識することから遠ざけてしまうことも、まったくありえないとは言い切れない。なぜなら、何気ない日常を生きる人たちは、その他大勢ではありえても、けっして主人公にはなりえないのだから。

 自分の居場所が、この世界のどこにも存在しない、という恐怖――私たちはふだん、この現実世界でさまざまな肩書きとともに生活をつづけているが、そこが本当に自分にとって必要な場所なのか、あるいは自分を必要としているのか、ということを考えると、じつは自分の代わりなどいくらでもいるという事実と直面することになる。それは職場を変えても、あるいは結婚してあらたな家庭をもったとしても、多かれ少なかれ生じることになる恐怖でもある。思えば、ライオンにしろカカシにしろ、そしてブリキ人形にしろ、いずれもこの世界での居場所を見失ってしまった人たちばかりである。そして伸江は、自らの妄想世界のなかでドロシーという役割を割り振ることで、現実世界における自身の居場所を放棄する形となった。

 「オズの魔法使い」は非常にファンタジックな童話ではあるが、大魔法使いであるはずのオズが、じつはただの気球乗りでしかなかったといった、ひどく現実的な一面をもった作品でもある。視覚障害者のために敷かれた黄色いブロックを「黄色いレンガ道」に見立て、殺人を冒険において乗り越えるべき障害に変換しつつ、ひたすら妄想世界を突き進む伸江の行為が、はたしていつか現実世界へ戻ってくるための一時避難にすぎないのか、あるいは現実世界をも蝕んでいくカタストロフへとなだれ込んでしまうのか、その結末はぜひ皆さんの目でたしかめてほしい。(2007.04.03)

ホームへ