【東京創元社】
『探偵は壊れた街で』

サラ・グラン著/高山祥子訳 



 人はときに、真実と向き合うのに多大な勇気を必要とすることがある。とくに、それまで「真実」だと信じてきた事柄が嘘であったり、あるいは真実の一端でしかなかったと判明したときに、あらたに提示された真実をそのまま受け入れることは容易でないことを、最近はとくに実感するようになっている。なぜならそれは、ある意味でそれまでの自分のすべてを否定することにもつながりかねないからだ。

 これまでこのサイトの書評をつうじて何度かくり返してきたことのひとつに、「真実は人の数だけ存在する」というものがある。たとえば、ある小説を読んで私は面白いと感じたとしても、別の誰かはそれをつまらないと感じたりするのはよくあることだ。そのさい、はたしてどちらの言い分が真実なのか、判定するのは簡単ではないし、いちいちその真偽を検証できるほど私たちは暇ではない。結果、私たちはそれぞれが感じとった「真実」を唯一のものとして受け入れて生きていくことになる。そしてその「真実」は、ときに私たちの人生を形成するうえで重要な要素となっていたりするものでもある。

 ずっと行方不明のままでいる家族が、じつはとっくの昔に死んでしまっていたという真実は、家族が生きているかもしれないというわずかな希望にすがって生きてきた人たちにとっては、このうえなく残酷なものであると想像するのは難しくない。そういう意味で、まぎれもない真実というものは、かならずしも人々に歓迎されるものではないのだ。人は意識するしないに関係なく、多かれ少なかれ自分にとって都合のいい「真実」を生きているものであり、あるいはそのほうが幸せなままでいられたかもしれないと思うこともある。だが、まぎれもない真実は、一度知ってしまえばけっして目を背けることのできない力で相手を束縛してしまう。

“探偵は真実を暴いてもけっして感謝されない”シレットは書いている。“むしろ嫌われ、疑われ、蔑視され、唾棄されるだろう。祝賀パレードや、花束やメダルは望めない。報酬は、恐ろしい、耐えがたい真実そのものだ。――”

 今回紹介する本書『探偵は壊れた街で』において、まず目を引く存在として、一人称の語り手でもあるクレア・デウィットなる女探偵がいる。彼女は三十五歳という年齢でありながら、すでに十数年も私立探偵を続けている女性であり、自他ともに認める「優秀な」探偵ということになっている。ただし、ここで言うところの優秀さは、そのまま私立探偵として尊敬される人物であることとイコールではない。むしろ独自の――というよりはどこか怪しげな探偵術をもちい、偏屈で強引なところがあり、大半の同業者からは変人扱いされている、というのが実情である。

 今回クレアは、ニューオーリンズで消息を絶った地方検事補ヴィク・ウィリングを捜索するという依頼を受けるが、彼が失踪する直前、ニューオーリンズでは大規模な嵐に見舞われ、街はひどい被害をこうむっていた。本書を読み進めていくとわかってくることであるが、物語の舞台となるニューオーリンズは賄賂や汚職、犯罪や麻薬、暴力沙汰といったものの温床となっており、殺人を犯してもほとんどの犯罪者が起訴に至らないまま出所する代わりに、そのあとの報復で死亡するケースが多いという無法地帯として書かれている。ふつうなら近づくことさえ躊躇われるような場所であっても、彼女はあくまで淡々と足を踏み入れ、ときには銃で勇ましく応戦したり、怪しい連中と麻薬をキメたりしながら、少しずつ真相へと近づいていく。

 嵐によって無法地帯にさらに拍車のかかったニューオーリンズで、隠された真相を求めて危険を顧みずに首を突っ込んでいくその姿は、まさにタフでクールな私立探偵の典型である。そしてクレアは一度事件の調査に乗り出せば、それがどれだけ困難なものであっても、真実を解き明かすまではけっして諦めない粘り強さの持ち主でもある。彼女が「優秀な」探偵として評価されているのは、何よりも真実を突き止めることに対する貪欲さに拠るところが大きい。むろん、ハードボイルド気質な私立探偵というのは、多かれ少なかれそうした気質に染まっているものであるが、本書において特徴的なのは、物事の真実を解き明かすという探偵の役割が、まるで何かの呪いか災いであるかのような扱いとなっている点である。

 真実を知ってしまったら、やりなおすチャンスはない。やりなおしも心変わりも、引き戻すこともできない。ドアは背後で閉まり、鍵がかけられる。

 本書にはしばしばジャック・シレットなるフランスの探偵の言葉が引用される。その唯一の著書『探知』は、クレアの探偵術のバイブル的な存在であり、またその内容がどこか哲学的なところもあって、本書のなかでは語り手以上に大きな存在感をもっているのだが、そこに書かれていることを要約するなら、解き明かすべき真相と探偵との関係性の逆転現象こそが真実だ、ということになる。私たちはふつう、真相とは常に人々の目から隠されているもので、そこに「探偵」という主体がアクションを起こし、隠された真相を見つけ出すものだと思っている。だが、シレットの考えではそれが逆転しているのだ。つまり、主体となるのはあくまで「真相」のほうであり、「探偵」はその真相をたしかな現実とすべく奉公する存在にすぎない、という考えである。

 クレアの探偵術の特徴は、たとえば指紋採取やハッキングなどの科学的技術だけでなく、ときには非科学的な方法――たとえば占いや麻薬によるトリップ、あるいは夢判断といった領域にも踏み込んで、真相解明の手段のひとつとしている点にある。そしてそれは、「真相」が隠されているものという視点ではなく、むしろ自分がそれに気づいていない、見えていないだけという発想から生まれるものである。その気になれば、真実は常に見えている。だが、それが見えないということは、自分の目が開いていないだけだ、とクレアは考えるし、それがシレットの探偵術の真髄でもある。

 私たちは多くのことについて無知である。だが、その知らないことの大半が、じつは私たちが「知ろうとしなかった」にすぎないものだ。あるいはあえて知らないふりをしていた、と言い換えてもいいが、そこには無知であることに対する当人の責任を強く喚起させる要素がある。そのことを指摘されて、気分が良くなる人はいないだろう。そして、その気分を害することをやらなければならないのが、他ならぬ「探偵」である。本書における本物の「探偵」は、ただそうありつづけるだけでタフであり、またクールであることを要求される、このうえなく理不尽な存在なのだ。

 それが依頼主の望む「真実」であるかどうかに関係なく、まぎれもない唯一の真実のみを追究せずにはいられないクレア――たとえ誰がどんなふうに思おうと、誰かに好かれようが嫌われようが関係なく、真実のみを重要視する彼女の姿勢は、しかし本当の真実を求める、ごく少数の人たちにとっては大きな救いの対象でもある。そんな最高に格好良い私立探偵のこれからの活躍が楽しみでならない。(2015.04.27)

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