【新潮社】
『白夜を旅する人々』

三浦哲郎著 
第15回大佛次郎賞受賞作 



 以前に私が読んだ本のなかに、『東京シック・ブルース』というタイトルの小説があったが、そのなかで、「決定論」について少し述べている箇所があったのをふと思い出す。

 決定論というのは文字どおり、この世の森羅万象は、それが物理現象であれ、人間の精神的変化であれ、必ずどこかに原因とそれゆえの結果があり、その因果から自由なものなど何ひとつ存在しない、という考え方である。この考えを突き詰めて考えていくと、ある物事の結果が別の物事の原因となるところから、今この瞬間の出来事は、すべて過去から連綿と続いてきた因果の糸の先にあるものであり、その結果もまた未来の原因へと結びつくことを意味することになる。その考え方は、自由意思と想像力をもって生まれてきた、人間が人間であるがゆえの要素を否定するものである一方、人間であるがゆえに引き起こされる善や悪といった要素をも否定することにもつながる。

 こうした哲学のひとつの考え方を、肯定するか否定するかはともかくとして、ひとつだけ確かなのは、今、自分がこの世界に人間として存在しているのは、それこそ何億分の一の選択肢が選ばれた結果である、ということだ。父親と母親が運良く結ばれた結果として自分が生まれたという事実、そして両親もまた、お互いの両親が運良く結ばれた結果であるという事実……その因果はどこまでも過去を遡ることが可能だ、というのは、ある意味すさまじいものを感じずにはいられない。そして、ふと思うのだ。生まれる時代や国、人種や宗教圏、もっと身近なところでいうならどの親の元に、どんな体を授かって生まれてくるのか、という選択肢にまったく自由がないのであれば、なぜ人間は意思や想像力などというものを獲得してしまったのだろうか、と。そして人間は、過去の因果律からどうあっても自由になることができないのだろうか、と。

 本書『白夜を旅する人々』の舞台となるのは現代ではない。昭和初期の東北地方――人力車や馬橇があたりまえのように走り、薪で火を起こして風呂を沸かし、火鉢や湯たんぽが暖房器具として使われてきた時代を生きる、ある家族の崩壊を描いた物語である。

 家族の崩壊、というと、あるいは家庭内暴力や引きこもりといった、現代の家族が抱える問題を思い起こす方もいらっしゃるかもしれない。そして私たちはとかく、両親の不和であるとか、小さい頃に受けたトラウマだとかいった、何らかの原因を見つけ出そうとするのだが、本書に登場する山科家に関して言うなら、けっして誰が悪いわけでもないし、誰に落ち度があったわけでもない、と言うことができる。そこにあったのはたったひとつ、体じゅうの色素が抜け落ちてしまう遺伝性疾患「白児」の娘がふたりも生まれた、という厳然たる結果、受け入れる以外にもうどうすることもできない事実だけなのだ。

 もし、この世に不幸なことがあるとするなら、振り上げた拳を振り下ろす場所がどこにもない、という事実ほど不幸なものはあるまい。とてつもない災難――誰もがそのことを知っているがゆえに、本書のなかで山科家の家族は、ごく普通の家族たらんとして生活をつづけていく。そう、そこに描かれているのは、その当時ならどこにでもあったであろう、家族のひとつの姿なのだ。だが、普通であろうとすればするほど、そこに漠然としたぎこちなさがにじみ出てしまうのをどうすることもできない。誰もが怒りや憤懣を抱えながら、それをどこにもぶつけることができないという、不条理の重さ――昭和初期という、人々が今ほど自由に情報を手にすることのできなかった時代に特有の、無知の薄暗がりのなかで、また、冬は厚い雪に覆われてしまう、地方という閉じられた場のなかで、否応なく背負わされた宿命の重さを日々噛みしめて生きていかなければならない山科家の人々の声なき叫びは、あまりにも重いテーマであると言わなければなるまい。

 宿命を受け入れろ、というのは簡単だ。だが、運良くマイノリティーに属することなく今まで来た私の口から放たれれば、それだけで相手を手ひどく傷つけることにもなりかねず、私はただ沈黙するほかになくなってしまう。本書の何よりすさまじいのは、悪い人間が誰ひとりいないにもかかわらず、次々と不幸が舞い込んでしまうという、不条理という名のリアリティーを、ある意味究極の形で結晶化させた、という点なのである。

 小説という表現形式に、エンターテインメント性を求める人には、本書のような展開は、あるいは受け入れがたいものを感じるかもしれない。これは、現代のメディアの世界においても言えることだが、大衆は象徴としての「正義」や「悪」を好む。白か黒か、応援すべきか憎むべきか、すべてがはっきりしていることを望むし、だからこその小説、だからこその虚構だという考え方もある。だが、けっして逃れることのできない宿命をその身に受け、それでもなお生きなければならないとき、そこには、自分の未来は過去の因果律に決定されるのではなく、あくまで自分の意思で選び、決定していくのだ、という、意思と想像力を持ったまぎれもない人間としての生き様がたしかに存在する。それは、人間の自由意思を否定する「決定論」に対する、人間の飽くなき挑戦の姿でもある。

 そのように本書をとらえたとき、そこにはもはや善や悪といった価値観は無意味となり、過去の因果を絶ち切って生きる、あるいは生きた人々の、ある意味で純粋な生のありかたが描かれることになる。本書のあとがきによると、本書は著者である三浦哲郎の私小説ということらしいが、もしそうだとするなら、自分の過去の因果に目を向けた著者は、たしかに真の人間を描くことに成功したと言うことができるだろう。

 もし「決定論」をくつがえすことができなければ、人間の生に意思など必要ではなくなる。むしろ、あることによって不幸になったり、罪を問われたりするのであれば、邪魔なだけだ。だが、それでも今、私たちが自由意思と想像力を持っている以上、そこには何らかの意味があるはずで、それを問いつづけることこそ「生きる」ということではないだろうか。人はなぜ生きるのか――その答えのひとつが、本書にはある。(2001.02.03)

ホームへ