【中央公論新社】
『白檀の刑』

莫言(モオイエン)著/吉田富夫訳 



 以前、リチャード・モランの『処刑電流』という作品を読んだとき、処刑の歴史が公開性から非公開性へと移行していったプロセスについて書かれている部分があって、なるほどと思った記憶がある。かつて、罪人の処刑が庶民に公開されていたもっとも大きな理由として、一種の見せしめとしての機能――処刑の過程を公開することで人々の恐怖心をうながし、そのことで新たな犯罪抑止へとつなげていこうとする機能が期待されていたが、やがて近代化とともに、法治国家としての体裁がととのってくるにつれて、残酷な公開処刑は犯罪抑止よりも、むしろ法への嫌悪を増長させることにしかならないという判断、さらには高まっていく死刑廃止論を押さえるための方便として、処刑は人々の目から隠されるようになったというものである。

 ところで、公開処刑のひとつの機能である「見せしめ」の一面だが、ときにこの見せしめが、庶民のなかに巣食っている犯罪予備軍への見せしめとしてではなく、一部の権力者がもつ絶大な力を誇示するものとして機能する場合が往々にして存在したことは、過去の歴史をひもとけばいくつも例が見つかることである。あくまで法によって成り立っている法治国家においては、そもそも法が権力を誇示すること自体がほとんど意味をなさないものであるが、王族や皇族によって国が統治されていた専制君主国家の場合、最終的に処刑を決定するのは法ではなく国の統治者の意思であり、その場合、公開処刑によって人々に植えつけられるのは「犯罪をおかす」ことへの恐怖よりも、むしろ「統治者に逆らう」ことへの恐怖へと容易につながることになる。それが近代国家としてどれだけ野蛮で、非文明的なものであるか、想像してみるのはけっして難しくはないはずである。

 本書『白檀の刑』は、19世紀末から20世紀のはじめにかけての中国、西欧の列強国によって無残に蹂躙されつつある清朝末期を舞台とした作品であるが、そのタイトルである「白檀の刑」とは、木の杭で罪人を絶命させないまま串刺しにして放置しておくというなんとも残虐な処刑方法のこと。本書はそんな、ひとつの処刑にかかわることになった人々の運命を描いたものだと言うことができるが、著者の真の意図は、ほかならぬ「白檀の刑」にまつわる悲喜こもごもを描くことで、清という、かつて中国に存在した国家の運命そのものを象徴してみせることにある。

 頭部、腹部、そして尾部と名づけられた三部構成となっている本書の内容を簡単に説明すると、山東省高密県を横断する鉄道敷設をとりしきっていたドイツ軍に逆らい、民衆を扇動してその飯場を襲撃した首謀者である孫丙という男が、国家への反逆として白檀の刑に処せられるという、まさにそれだけの話になってしまうのだが、頭部と尾部ではその孫丙や、彼の娘で、小さい頃に劇団のなかで男として育てられたため纏足されなかった大足の眉娘、その夫で犬や豚の解体をなりわいとする、ちょっと頭の弱い小甲、その小甲の父親で、かつて北京の刑部大堂の首席処刑人をつとめ、かの皇帝陛下や西太后とも謁見したことのある趙甲、そして高密県知事という高い地位にありながら、眉娘と愛を交わす関係にある銭丁といった登場人物が、一人称でそれぞれの心情を語りつつ、白檀の刑が決定され、それが執行されるまでの様子が書かれ、腹部では、そもそも孫丙がなぜドイツを怒らせるような事件を引き起こすことになったのか、その直接的・間接的因果も含めた原因について三人称で書かれている。それゆえに、物語のなかでどのような事件が進行しているのか、そしてこれらの登場人物がどのような関係にあるのかががはっきりしてくるのは、頭部の最後のほうになってからである。

 同じ親戚関係のなかに罪人と処刑人が混在し、さらにその娘が処刑を直接とりしきる県知事と愛人関係にある、というなんとも複雑で皮肉な人間関係にあるなか、どのような人間ドラマが――あるいは修羅場が展開するのか、というのも本書の読みどころのひとつではあるが、それ以上に象徴的なのが、何より国家の威光を示すはずの公開処刑、それも「白檀の刑」という高度な技術と鍛錬を必要とする残酷ながらも芸術的な刑が、ドイツという外国の意向をおもねる形でとりおこなわれていく点である。

 中国というお国柄を象徴する思想のひとつに「中華思想」というものがあり、これは自分たちの国こそが天下の中心であり、それ以外の国々を自分たちとは格下のものとしてとりあつかうという、ある意味で傲慢不遜な考え方なのだが、本書のなかで執行される「白檀の刑」は、もはや清という国が国家としての体裁と威厳を維持することもできないガタガタの状態であることを、何よりも雄弁に物語っていると言える。ようするに、皇帝陛下の絶大な力を誇示する、という意味では、この刑罰はまったくの茶番にすぎないのだ。にもかかわらず、決定はくつがえることはなく、「白檀の刑」はつつがなく執行される。いや、仮にその処刑が茶番であるとわかっていたとしても、もはや個人のレベルではどうにもならないほど、清という国、しいては古くから皇帝を支配者としておし抱いてきた国々の制度は柔軟性を失っていると言ったほうがいいのかもしれない。そんな国のガチガチな制度に成すすべもなく押し流されていく登場人物たちの生き様の悲劇、あるいは喜劇がそこにはある。

 わしのような人間がこの土地から出て、みなの衆は幸せじゃ。この世のお芝居で、殺人ほど面白いものはないし、この世の殺人で白檀の刑より面白いものはないのじゃから。

 本書のなかには、首席処刑人である趙甲がかつて執り行なった<閻魔の閂>や、罪人を生きたまま寸刻みにしていく凌遅の刑の様子が何ページにもわたって詳細に描写されている部分があるが、何より圧倒されるとすれば、その生々しさよりも、むしろあまりにも事細かに決められた約束事の多さに尽きる。趙甲はその約束事にしたがって、ただ粛々と刑を執行することに処刑人としての真髄があると信じて疑わないが、そもそもなぜそのような事細かな決まりごとができたのか、本当にそれが必要不可欠なことなのか、といった疑問を差し挟むことはない。そして、それは何も趙甲ひとりのみに言えることではなく、目先の利益や野次馬的興味に奔走する袁世凱らもふくめた、本書の大部分の役人たち、庶民たちについても同じことである。

 ドイツ軍兵士のあまりにも横暴な仕打ち、人を人とも思わない傍若無人ぶりに耐えかね、真に国家の行く末を憂いてこその孫丙の反逆は、本来なら救国の英雄としてまつられてしかるべきものであるにもかかわらず、諸外国への圧力から、彼を重罪人として処刑せざるをえない清という国家――もはや国としての体裁など失われているにもかかわらず、本来なら守るべき国民に対してあい変わらず旧態依然とした権力を行使し、庶民に大きな影響をおよぼしつづける空虚な国家のグロテスクさを、本書ほど見事に表現したものを私は知らない。そしてはからずも、処刑人と罪人とが共謀しておこなうことになる、まさに「白檀の刑」という名の演劇は、「中華思想」にあまりにも毒されてきたがゆえに、自身の国を客観的な立場から批判することからあまりにも遠くへだたってしまった中国という国そのものへの、痛烈な風刺でもあるのだ。

 本書に登場する孫丙は、もともとは地方芝居のひとつである「猫腔(マオチアン)」の座長という設定であり、本書のいたるところでこの猫腔の一節が抜粋されるような形で、物語のなかに組み込まれている。演劇も小説も現実ではなく虚構にすぎないものではあるが、過去の中国の歴史的事実をもふまえて生み出されたこの壮大な物語が、同時に演劇としての側面をも強く打ち出しているとすれば、物語としてのリアリティーが強くなればなるほど、そのお芝居としての側面、虚構としての側面もまた目立ってくることになる。はたして、読者はこの物語のなかに、どのような事実を見出すことになるのだろうか、ミャオミャオ。(2005.07.03)

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