【東京創元社】
『血の探求』

エレン・ウルマン著/辻早苗訳 



 もし、この世界に存在するのが自分ただひとりであるなら、自他の概念そのものが無用の長物となるのだろうが、私たちが生きる人間社会には自分のほかに大勢の他者が存在し、それらが寄り集まり、互いに協力し合うことで社会を維持している。そしてそうである以上、私たちは「自己」というものを常に明確にしつづけなければならない運命にある。もしそうしなければ、私たちにとっての「所有」の概念は崩壊し、弱肉強食という自然界の法則が唯一の正義である過酷な世界を生きなければならなくなるからだ。

 ところで、私たちが自分の存在を他ならぬ自分自身だと認識するためには、自分と他者とを比較する必要があるが、そのさいに重要となるのが、自分と相手がどのくらい似ているか、という「同化」の概念である。たとえば、私たちは「人間」という生物であって、他の哺乳類とは異なる存在であるが、そんなふうに認識できるのは、私たちが「人間」としての共通点を数多く共有しているという「同化」の概念がはたらくからに他ならない。人間どうしはよく似ている、だからこそ、人間とチンパンジーとは異なるという作用が発生する。この「同化」の概念を突きつめていくことで、最終的に「自分」という概念が形成されていくことになる。

 自分と同じ要素と、自分と異なる要素――自己形成において重要となるこの概念の、もっとも初期の比較対象となるものが何かと言えば、それは母親であり、父親ということになる。そして上述の「同化」の概念の重要性をかんがみるならば、自分の両親が遺伝子的類似性を有しているという要素は、幼児の自己形成においても優位にはたらくということになる。自分はたしかにこの一族の血を引いている、という事実は、それが自身で選択不可能であるがゆえに、良くも悪くも強固なものとしてその人の自己形成に影響をおよぼしていく。今回紹介する本書『血の探求』は、そうした自己形成、アイデンティティをテーマとした作品だと言うことができる。

 わたしの場合、たまたまほかの人たちよりもちゃんとした証拠があった。両親はほんとうに実の親じゃなかった。もう何百回も言ってますけど、わたしは養子じゃありません! わたしの素性は謎めいているんです!

 この物語の大半は、とある精神分析医とその患者のセッションで構成されている。医師はドーラ・シェスラーという名のドイツ人、患者のほうはサンフランシスコ在中の女性金融アナリストであるが、彼女の名前は最後まで明らかにはされない。そして彼女は、上述のセリフからもわかるように、自分の出自にかんして大きな欠落があることで、深く思い悩んでいる。時代は一九七四年のサンフランシスコ。場所は当然のことながら、精神分析医のオフィスということになるのだが、そのオフィスが一戸建てではなく、ビルの貸部屋にあるというのが、本書を語るうえで重要な要素となってくる。なぜなら本書の一人称としてこの物語を語るのは、精神分析医でも患者でもなく、このふたりとはまったく面識のない中年男性であるからだ。

 一人称の語り手「私」は休職中の大学教授で、長年悩まされている精神不安定の緩和のためにオフィスを借りることになったのだが、その部屋は上述の精神分析医のオフィスのちょうど隣りで、しかもそもそもの間取り的に、そのふたつの部屋は続き部屋となっていた。借りた当初はそのことに気づかなかった語り手は、いざ研究に入ろうかという段階になって、隣りの部屋が精神分析医のオフィスであり、診療中はプライバシー保護のため、雑音発生装置がオンになることを知ってしまった。ところが、上述の患者とのセッションのときには、その耳障りな雑音が切れ、その内容が筒抜けになることを知った「私」は、部屋を移るという選択肢を捨て、そのセッションを盗み聞きするという選択をする……。

 こうして、いつバレるかもわからないという極度の緊張のなか、「私」という主観から患者の「血の探求」というひとつの大きな謎が展開していくことになる。この謎の骨子となるのは、患者の出自にかんすること――彼女の産みの親はどこの誰で、どういう経緯があって彼女は患者を手放し、どうして今の家族のもとにたどり着いたのか、という点にあるのだが、この謎そのものの魅力もさることながら、それ以上に興味深いのが、この謎にたいする、主要な登場人物三人のつばぜり合いであり、その力関係の微妙な変化である。

 物語当初、精神分析医は患者の「血の探求」には肯定的な態度を示しており、逆に患者のほうはその話題を避ける傾向にあった。ただし、精神分析医の意図は、患者のかかえるさまざまな問題や悩みの根底にアイデンティティの未成熟さがあると分析しており、それを埋め合わせるもののひとつとして、患者の出自を明らかにする、という選択肢があったにすぎない。じっさい、物語当初に問題となっていたのは、患者と育ての母親との関係性についてであって、患者の出自を――産みの親が誰かという点を――問題視しているわけではない。精神分析医にしてみれば、患者がどこかに強く「属している」という意識こそが重要であって、育ての親との関係が良好なものとなれば、自然と解決していくものという狙いがあったと思われる部分がある。

 いっぽうで語り手のベクトルは、患者の「血の探求」には強い拒否感をしめしており、精神分析医には患者が自身の血縁とは無縁のところで、あらたな自己を再構成してくれることを願っている。自分という「個」は、親からの遺伝子や血のつながりとはまったくの無関係であり、むしろそうあるべきだという語り手の主張には、自身の家系が代々精神不安定の種をはらんだものであるということ、そして自分もまたその種をふくんでいるかもしれないという恐怖があり、またそこから自分を解放したいという欲求が見え隠れする。

 患者の試みと私の試みには、遺伝の峡谷とも言うべきもののなかで患者を立ち止まらせずに導くドクター・シュスラーの技量が必要だった。ドクターはぜったいに患者のなかの”実の”母への渇望を刺激してはならない。そんなことをすれば、すばらしい”謎めいた素性”が血統の現実という陳腐なものに変容してしまうからだ。

 いっぽうに、自分の血筋をたどることができないがゆえに、確固たる自己を築きあげていくことができずに苦しんでいる人がいて、いっぽうに、他ならぬその血筋――けっして否定することも切り捨てることもできない遺伝子的つながりゆえに思い悩む人がいる。さらに言うなら、精神分析医であるドーラ・シェスラーにもまた自らの血筋にかんする苦悩があり、それぞれの思惑や願望がひそかに交錯しながらも、物語は語り手の患者に対する思い入れの強さのあまり、彼自身が患者の産みの親探しの手助けをするという展開となる。ひそかに盗み聞きしたわずかな情報から推理をはたらかせ、患者の母親の情報を割り出していく様子は、まるでミステリー小説における探偵のようであるが、問題なのは謎を解明することではなく、解明された謎に対して患者がどのように向き合うかという点であり、またその結果を語り手がどのように受け止めるのか、という点にある。

 「自分は何者であるのか」という命題は、人として生きるうえで避けて通ることのできないテーマであり、それを題材にした文学作品も多い。そしてそこには常に、家庭をはじめとする生まれ育った環境の問題と、生まれもった自分の血筋の問題が横たわっている。私たち人間は、自分のなりたい者になれるはずだという自由への憧れがあるいっぽうで、何者にもなれないのではないかという怖れがあるのも事実である。他の誰でもない、まぎれもない自分自身――それはあるいは、ただの幻でしかないのかもしれないが、それでもなおそれを求めずにいられない人たちが、今回の「血の探求」の果てに何を見いだすことになるのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2015.01.27)

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