【文藝春秋】
『武士道エイティーン』

誉田哲也著 



 2020年に夏季オリンピックが東京で開催されることが決定した。そのことに対して世間では賛否両論あるようだが、せっかくのオリンピックなのだから、日本の出版業界もこれを機に関連本をバンバン売るみたいなことをすればいいと思い、一時期スポーツを扱った小説がどのくらいあるのかを調べてみたことがある。陸上や水泳、卓球、バスケット、はては重量挙げや競歩、トライアスロンにいたるまで、じつにさまざまなスポーツが小説の題材となっていてなかなかに興味深いものがあったのだが、そのさいに気づいたことのひとつとして、日本ではわりとなじみのある剣道がオリンピックの競技種目として含まれていない、という事実がある。

 同じ日本古来の競技として柔道はオリンピックの種目となっているのに、どうして剣道は入っていないのか――ネットなどで調べてみると、いくつかの有力そうな理由は見いだせるものの、これというはっきりとした回答があるわけではなさそうだ。だが、およそ剣道というものの本質を見据えたときに、ひとつの可能性として一番しっくりくるのは、「剣道はスポーツではない」という剣道家たちの意識の問題である。

 かつて、武士たちが敵を倒すための武器として扱っていた剣術から生まれたとされる剣道は、剣を竹刀に変え、防具を身につけることで競技化したものである。本物の真剣を使えば、勝負に負けることはそのまま死を意味する。そうでなくなった時点で、剣道がスポーツだという言い分は、けっして間違いではない。だが、同時に日本人である私のなかに、剣道がたんなるスポーツであるという認識に、どうにもしっくり来ないものがあるというのも事実である。そして剣道などまったくやったことのない自分が、なぜそんな認識をもつようになったのかと考えたときに、ふと頭をよぎったのが、以前紹介した『武士道シックスティーン』を含む「武士道」シリーズである。

 一撃で相手の戦闘能力を奪う。相手を殺すのでも、傷つけるのでもなく、また自身も無傷のまま、戦いを終結させるという、理想。そういう戦い方を習得するのが、武道。あたしたちにとっての、剣道。

 磯山香織と甲本早苗、ふたりの剣道少女の高校時代を描いた三部作の最後を飾る本書『武士道エイティーン』では、前作『武士道セブンティーン』の書評でも予想したように、ふたりの剣道による直接対決が実現する。それも、高校最後のインターハイという晴れの舞台での対決は、九州の高校への転校という形で離れ離れになったふたりの、いわば悲願のようなものとなっており、物語としてはもっとも大きな山場と言っても過言ではない。しかしながら、このシリーズを通して読み進めてきた人ならおのずと察することではあるが、ふたりの剣道による対決は、たんに勝負事としての優劣を決める、あるいはスポーツとして白黒つけるといった単純な見方では計れないものとなっている。そしてそれが、私にとっての「剣道=スポーツ」という考え方への違和感のもととなっているところがある。

 かつて、剣士のようなストイックさでいかに相手を打ち負かすか、という点に異常なまでのこだわりを示していた磯山香織は、強いのか弱いのかよくわからない、ふわふわしたような剣道をとる甲本早苗に敗北し、それがふたりの関係を密にするきっかけとなった。それは同時に、ふたりにとっての「剣道とは何か」という考えに一石を投じることにもなったのだが、それを反映するかのように、香織は香織の、早苗は早苗の剣道を歩んでいる。香織はおもに東松学園高校女子剣道部のエースとして、自身の腕を磨きつつも後輩の指導に力を入れるという変化となって表われているし、早苗のほうもいったん香織から離れることで、香織のもつ「武士道」に自分がどれほど影響を受けていたかを実感し、もともと日本舞踊の代わりとして始めた剣道について、あらためて考えるきっかけを与えられた。

 前作の書評の繰り返しになってしまうが、ふたりが剣道で対決するというのは、ふたりの剣道の技量の対決というよりは、ふたりの育ててきた「武士道」の対決という側面が強い。もともとは敵を切り殺すための技術であった剣術――しかし現代においては、もはやその本来の目的が失われ、競技のひとつとなった剣道が、なぜいまもなお続けられ、また剣道を志そうとする人たちが絶えないのか、という命題は、おそらくこのシリーズを貫くテーマとなっているところがある。そこにあえて言葉を与えるなら、「伝わる」ということだ。

 香織と早苗の人称が交互に入れ替わるようにして展開していくというスタイルは共通でありながら、本書ではそれに加えて、ふたりの身近にいる人たちの視点が挟まっているのが大きな特長となっている。そしてその視点には、ときに彼女たち高校生の立場から大きく離れたものも存在する。具体的には、香織が幼いころから通っていた道場の師範である桐谷玄明と、早苗が所属する福岡南高校の剣道部コーチである吉野正治のふたりがそれにあたるのだが、そこには彼らがどのような道を歩んで今に到っているのかが語られており、それが香織と早苗の「武士道」にどのような影響を及ぼしているか、という点で現在へと結びつくことになる。

「……まあ、その吉野先生が、その決闘のあとにいったの。戦いを収めるのが、誰も傷つかないようにするのが武士道なんだ、そういう技を学ぶのが武道なんだ、剣道なんだ、みたいなことを」

 上述の引用における「決闘」とは、前作における早苗と、ある意味で勝利至上主義を行く福岡南高校の象徴とも言うべき黒岩伶那との対決のことを指しているが、香織にとっても因縁の相手である彼女との決着もさることながら、ふたりの「武士道」が周囲の人たちをどんなふうに変化させたのか、という意味では、伶那はその一番の対象者と言える。それもふくめ、過去から現在、そして未来へ、何を教え、あるいは伝わっていくのかという、「武士道」三部作の最後を飾るにふさわしいダイナミズムが、本書にはたしかに描かれている。

 本書ではたしかに、香織と早苗との再戦がはたされる。そして、剣道が競技のひとつである以上、そこには必ず勝者と敗者という形で決着がつくことになる。だが、本書がそうした勝負事としての「剣道」を表現しようとしているわけでなく、あくまでそれぞれの「武士道」に軸を据えている以上、ふたりの「対決」はそこで終わるわけではない。何より、剣道は殺し合いではない――その意味するところは、私たちが思っている以上に深いものがある。(2013.11.18)

ホームへ