【岩波書店】
『武士道』

新渡戸稲造著/矢内原忠雄訳 



 武士道という言葉に対して、私たちがあまり良い印象をいだかないことがあるとすれば、それが時代遅れなものの象徴であり、また時代の変化についていけない旧弊な人たちの価値観でしかない、という認識があるからに他ならない。じっさい、武士道は封建制度のなかにあって成立した精神であり、それが崩壊した近代以降の世の流れのなかで、武士という職業が成り立たなくなったのと同じように、武士道もまた廃れゆく運命にあった。今の時代において、武士や武士道はもはや過去の遺物であるし、逆に一種のギャグの産物として使われるというのがせいぜいのところでもある。

 だがその一方で、私たち日本人が忠義や誠実さ、名誉を重んじる精神に対して、ことのほか大きな価値観を置いているのもまた事実である。ヤクザ映画における任侠の精神、赤穂浪士の見せた主君への忠義をはじめ、個人的な損得勘定や金銭といったものに流されることなく、あくまで精神的なものを遵守していこうとする態度について、私たちはことのほか弱いし、だからこそそうしたジャンルの物語は今もなお生きのび、民衆の支持を獲得し続けている。本書『武士道』によると、そうした日本人の性質について、その根幹には武士道の精神があり、それが脈々と受け継がれ、私たち日本人の精神的土壌として深く影響をおよぼしている、ということになる。

 しかし昔あって今はあらざる遠き星がなお我々の上にその光を投げているように、封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている。

 本書は文字どおり「武士道」の何たるかについて紹介したものであるが、同時に日本人が抱く道徳観について語ったものでもある。西欧においてはキリスト教を中心とする宗教こそが道徳教育の基盤となっているが、そうした宗教観をもたない日本人が、はたしてどのようにして道徳観を身につけていくのか、という疑問から端を発した本書であり、武士道の起源からはじまって、義、勇、礼、忠といった特性や、敵討ちや切腹など、一見すると奇異なものに映る一種の制度について、海外の歴史や文化、哲学、文学といったさまざまな知識と比較対象していくことで、外国人にもできるだけわかりやすい形で解説されているのが際立った特長のひとつとなっている。じっさい、騎士道をはじめとする著者の知識の多さ、参考文献や引用の範囲の広さのみならず、そうした知識を自由自在に結びつけていく才覚については、じつに驚くべきものがあるのは間違いのない事実であるが、私が本書を読み終えてふと思ったのは、日本人の道徳観の基盤となったと著者が主張する「武士道」、およびその武士道を体現する武士という身分の人たちが、かつては身近に実在した、まぎれもない人間であったという点である。

 柔道、剣道、弓道、花道、茶道など、日本固有のスポーツや作法には、「道」という漢字のつくものが多い。ひとりのちっぽけな人間が、あるひとつの事柄を極めるために歩んでいく道程、という意味合いをもつそれらは、たんに身体や技を磨いたり、誰かと競い合って優劣を決めたりする以上に、自身の精神を鍛錬するということに重きを置いているものでもある。そして、武士道はその最たるものだと言うことができる。武士とはもともとは領主に雇われて戦う傭兵であり、いかにして相手を殺すかという技術に長けた、きわめて野蛮な職業だ。本来であれば、一国民の道徳の基盤となるような要素などありえないはずなのだが、にもかかわらず、今を生きる私たち日本人の道徳をはじめとする、ものの考え方や感じ方に武士道の精神が何らかの形で浸透しているのだとするなら、やはりそれだけのものが武士道にはあった、ということになる。それを知るだけでも本書を読む価値はあるのだが、もう一歩踏み込んで、武士道の何が日本人の心に響いているのかを考えたときに、上述の人間味という要素が浮かんでくることになる。

 道徳とは、言ってみれば人間が人間であるために守るべきもの、一種の掟である。人を騙してはいけない、盗みを働いたり、殺人といった非人道的な行為をしてはならない、両親やお年寄りを敬う、約束はかならず守るといった、人間社会を円滑に動かしていくための最低限の決まりごとは世界共通のものであるが、その規範を宗教に置くか、武士道に置くかという点が、国の違い、文化の違いというものを如実に表している。宗教の中心にいるのは神だ。そして一神教の神とは絶対の存在であって、人々はその存在をひたすら畏怖し、また崇拝するしかない。ゆえに、宗教を基盤とする道徳とは、神という圧倒的な存在によって有無を言わさず「守らせる」というベクトルとなる。

 こうしたベクトルは、たとえば「悪いことをした人間は地獄に落ちる」といった仏教の概念として、じつは私たち日本人にもなじみのものである。だがいっぽうで、私たちは日本古来の神々について、じつに人間くさい性質をもたせ、より親しみのある存在として、まったく別のベクトルで敬っているという事実がある。そして武士道とは、刀という武器を携帯することを許された、まぎれもない人間が、人間であるというよりは、「武士」という特権的身分であるがゆえに守るべき「道」を指すものである。それは当然のことながら、ふつうの人たちの守るべき道徳観よりも、はるかに高い水準を保たなければならないし、またそのことによって武士たちは、戦のない平和な世のなかにあって、自身の存在価値を高めてきたとも言える。そして、そうした武士の存在を基盤とする道徳とは、自分と同じ人間でありながら、より良き人としての道を進んでいく者たちへの「あこがれ」――自分もあのような武士になりたいという気持ちこそが原動力となっている。

本書はけっして武士道を礼拝するものではなく、武士であるがゆえの権利の乱用や、また偏った武士道精神ゆえの頑固さ、融通の利かなさといった欠点についても指摘しているが、それは真の「武士道」を身につけることの困難さと表裏一体であることを意味してもいる。そして本書をつうじて見えてくるのは、古今東西のさまざまな知識と照らし合わせたうえで浮かび上がってくる武士道の精神が、ひとりの人間としての正しいあり方の追及という意味で、じつは全人類に共通するものだということである。西欧における紳士としてのあり方や騎士道精神は、理想の人間を目指す者たちのひとつの形である。そしてその高みを目指す姿というのは、国や文化の違いに関係なく、孤高で美しいものであり、そんな彼らに私たちは惹かれずにはいられない。

 必要以上に自己主張せず、謙虚であることを美徳とし、相手をもちあげるよりは自分自身がへりくだることで相手への敬意を示す――それは、日本独自の礼儀であるが、もともとは戦うことを目的とした武士たちが、その力を正しく使うために自らに化した武士道のなかにたしかに見受けられるものだ。本書を読んだ人が、日本人であることに多少なりとも誇りをもてるようになれば何よりである。(2010.09.16)

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