【新潮社】
『バスストップの消息』

嶋本達嗣著 
第七回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞作 



 社会からある役割を与えられるのは、何も人間ばかりではない。信号機は交差点での交通を整理するという役割を、ポストは葉書や手紙を受けとるという役割を、自動販売機は道行く人たちに特定の商品を販売するという役割を、そしてバス停は、ここにバスが停車することを伝える、という役割を負って製造され、配置される。与えられた役割を忠実に果たすことは、社会というひとつのシステムを滞りなく維持していくためには必要不可欠なものだ。だが、私たちがふと、自分の役割に疑問を持ち、どこかここ以外に自分を必要としている場所があるのではないか、と思うことがあるのと同じように、その誕生と同時に否応なくひとつの役割を強制される信号機やポストや自販機やバス停たちもまた、何らかの感情をもち、やがて私たちと同じ疑問にたどりつくことがあるのではないだろうか。

 本書『バスストップの消息』に登場するのは、一本のバス停だ。「西日橋」と名づけられた彼は橋のたもと、古い帽子店の前に、何十年ものあいだバス停として立ち、周囲の自然や人々の営みをじっと見守ってきた――二、三年に一度やってくる監査官が、彼の顔に【目】を書きこんでからの数ヶ月間を除いては。監査官に【目】を書きこまれると、なぜか彼は意識を失ってしまい、その【目】の効力が西日によって薄れるまで目覚めることがないのだ。
 そして、ある夏の終わりを感じさせる日の夜、監査官が【目】を書きにやってくる前日、彼は目の前に止まった終バスに引き寄せられるかのように乗り込む。橋の向こう側に広がる世界、そして彼にとっての終着点を目指して……。

 自分の意思をもって動き出すバス停、というイメージは、ある意味でとてもファンタジックであり、読み手の想像力をかき立てるものである。必ずバスが通る道路脇に立っているはずのバス停が、たとえば昼なお薄暗い森の中に立っている姿を、あるいは埠頭の、波しぶきがかかりそうなほど海の近くに立っている姿を想像するだけで、何か不思議な想いが湧きあがるのを感じはしないだろうか。そこには、バス停が本来持っているはずの社会的役割を、バス停自身が裏切ることによって生じる、現実の世界からの逸脱が存在するのだ。そのバス停は「超芸術トマソン」のように、もはや何も意味していないのかもしれないし、あるいは私たちがこれまで遭遇したこともないような、未知のバスを呼び寄せるバス停なのかもしれない。

 本書のバス停「西日橋」は、何も意味しないバス停ではないし、普通のバスを止める普通のバス停である。だが、そのバス停が、数十年のあいだ同じ場所に立ちつづけたバス停らしい哲学的思考をもち、そしてバスに乗り込んで橋を越えたとき、自分のことを「僕」という一人称で認識する、バス停としての自分の存在意義を確かめるための旅がはじまる。旅の途中で、彼は自分以外のバス停と出会い、いろいろな人の暮らしを目にし、そしてこの世界を維持しているためのシステム――自分の顔に【目】を書きこみ、世の中のあらゆる事柄を知るためのシステムの存在を知り、そんなシステムに疑問をもち、世界を変えようとする人たちのことを知る。

 旅立ち、出会いと別れ、という点で、本書に書かれている物語の構成は、昔からよくある成長物語と類似してはいる。だが、ここには肝心の「成長」という要素が存在しない。あたり前のことではあるが、バス停はバス停であり、それ以上でも、それ以下でもない。自分と他者を比較し、いろいろな場所でいろいろなものをまのあたりにし、見聞したことについてさまざまなことを考えたとしても、その事実だけは変わらない。本書には、少なくとも「ピノキオ」のような奇跡はない。そのあたり前の事実が、しかしなぜ、これほどまでに切なく感じるのだろうか。

「誰にだって、何処にだって、すべては揃っているんだ、最初から。気づけば得るし、気づかなければ失う、それだけさ。オマエは見る、考える、そのこと自体が、獲得であって喪失なんだよ」

 空が汚れている、という事実。だが、その事実を知ったところで、バス停は空をきれいにすることも、あるいは目を閉じて汚れた空を視界から追い出すこともしない。ただ黙って、汚れた空を見つめ続けるしかないのだ。はたしてバス停としての役割から飛び出した「西日橋」という名のバス停は、何者かになれたのだろうか。(1999.10.16)

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