【みすず書房】
『バーガーの娘』

ナディン・ゴーディマ著/福島富士男訳 



 あえてそのタイトルは伏せておくが、以前読んだある小説のなかに、次のような設定のものがあったことをよく憶えている。それはある若い夫婦の物語で、男は才能はあるものの、売れない画家、女はそんな男の生き様に惚れて一緒になったのだが、ある日、男のほうが末期のガンとなってしまう。男は残り少ない人生を、自分がそれまで打ち込んできた絵を描くことに費やしたいと願っていたが、それはただでさえ少ない彼の寿命を縮める行為であり、女のほうは少しでも男と長く過ごしたいという想いから、絵を描くことを止めさせたいと考えている――というものだ。

 このふたりの考え方について、はたしてどちらが正しくて、どちらが間違っていると言えるのだろうか。どちらの思いもひとりの人間としては切実なものであり、その気持ちはどちらのものも痛いほどよくわかるのだが、別の見方をするなら、男の考えは自分勝手なものにもなるし、女の考えもまた、相手のことを深く考えていない、ということにもなる。人間がある場所に寄り集まって生活するさいに、多かれ少なかれ生じることになる、個人と個人の衝突――そのなかで、人はある程度は自身の欲望を抑え、あるいは妥協点を見つけ出して自分を納得させることになるのだが、それでも上述のような、お互いにどうしてもゆずれない、きわめて正当な理由のあるものが出てきたときに、その善悪や正誤を外から判断するのはとても難しいものだということを、そのときの私は思ったものである。

 ひとりの人間として、正しいことをしたい、幸福をつかみたいと思っても、家族をはじめとする人間関係のしがらみがそれを許さないという状況はよくあることだが、今回紹介する本書『バーガーの娘』のように、そうしたものを判断するまぎれもない自分自身が、そもそもどのようなもので、どういう価値観の上に立っているものなのか、という疑問点から出発しなければならない状況というのも、たしかに存在する。

 きみって、感じ方にしても行動にしても、正しいことを仕込まれてきたんだ。それで、どうやってきみはほんとうの自分がわかるんだい。きみは無意識に動作を起こす……でも、それはきみに期待されている動作だ。

 少数の白人が黒人をはじめとする大多数の有色人種に対して、政治、経済その他あらゆる方面での差別を合法化するという、悪名高きアパルトヘイト政策のもとにある南アフリカ共和国を舞台とする本書での、ローズマリー・バーガー、通称ローザの立ち位置は、まさにそのタイトルが象徴するものである。「バーガーの娘」――彼女の父であるライオネル・バーガーは、裕福な白人の生まれでありながら、アパルトヘイト政策に正面から反対し、南アフリカ解放運動の指導者としての立場を貫いた人物であり、その偉大さゆえに、ローザは生まれたその瞬間から「バーガーの娘」としての個性を固定され、それをあたり前の自分として受け入れて育ってきたという背景がある。

 当局から要注意人物として常に監視され、父や母が不当に逮捕、拘留されるのがなかば日常と化していたローザの少女時代は、けっして「普通」とは言えない状況下にあったわけだが、私たちが生まれる場所や両親を選べないのと同様、彼女にとってもそうした状況が日常であり、それが目に見える世界のすべてであった。それは、一見するとかなり過酷な体験を、夏の日差しやそよ風の心地よさと同じレベルで表現しているところからも見て取れるのだが、ほぼ無意識のうちに用心深く、そして容易に感情に流されないという極端に理知的な生き方をしてきたローザが、一度そうして築いてきた自分を外から眺め、あらためて「本当の自分」――バーガーの娘としてではなく、一個の人間としてまぎれもない自分自身とは何なのかを問い直していく過程を描いた作品、それが本書ということになる。だが、その過程はたんに「自分探し」といった、既存の言葉でくくることができるような生易しい代物ではない。

 本書の中心にいるのは、間違いなくローザという女性である。にもかかわらず、彼女がどのような人物なのかという明確な像をイメージするのは難しい。あるときは三人称で、あるときは一人称で、自らの過去や気持ちを語っているかと思えば、特定の誰かに話しかけるかのように話が進んでいくというふうに、人称も、文体も、時間の流れさえも一定しない本書の形式は、そのまま彼女自身の揺れ動くアイデンティティを象徴するものでもあるが、その不安定さを取りあげるさいに外すことができないものとして、彼女の父であるライオルネ・バーガーが彼女にとってどのような意味をもっていたのか、というアプローチがある。

 もちろん、ライオネルはローザの父親だ。だがそれ以上に、彼は南アフリカ解放運動の指導者であり、アパルトヘイトという劣悪な人種差別と戦い、最期には獄死することになった、まぎれもない正義の人である。彼の周囲にいる誰もが、ライオネルをひとりの人間というよりは、偉大な指導者、極めて正しいことを貫いた人物としてとらえていたし、それは家族であるローザにしても例外ではなかった。だからこそローザは、父の推し進める活動を手助けするために、「バーガーの娘」として期待されていることをひたすら忠実に実行してきた。そしてそれは、人間としてきわめて正しい行為であるかもしれないが、家族の幸せという点から見れば、きわめて異常なことでもある。

 白人という特権階級にありながら、虐げられ、隷属を強いられている有色人種の人間としての権利を勝ち取るために戦った男の娘、という微妙な立場にいるローザ――ときには、その肌の色だけで黒人たちから憎まれ、ときにはライオネルの娘であるというだけで、その言動のあらゆるものが民族解放運動の一端として結びつけられてしまう彼女の物語は、南アフリカという故郷のなかで、白人である自身の居場所を探し求めるという側面もある。だが、それ以上に重要なのは、彼女の理性と感情のバランスという側面だ。

 家族というのは、ともすると理屈では推し量ることのできない結びつきをもつ人間関係だと言える。たとえ犯罪者であっても、自分の腹を痛めた子どもであれば愛おしいと感じてしまう母親のように、その結びつきはある意味で感情的なものである。だが、ライオネルとローザという親子関係は、本来あるべき感情的な結びつきよりも、もっと理性的な結びつきのほうが強いものだった。だが、まさにその理性的な結びつきが強かったがゆえに、ライオネルの獄死は、そのままローザにとってのアイデンティティの拠り所の喪失という意味を強くしてしまった感がある。

 ――さあ、もうきみは自由だよ。
 わたしはそうなるのを恐れていた。人を極度に冷淡で用心深くしてしまう、そんな発見だった。
 そんなことを知ってしまったら、どうすればいいのだろう?

 本書の冒頭はじつに印象的な場面だ。ジョハネスバーグ刑務所の門に押し寄せた人々のなかにいる十四歳のローザ――彼女は拘禁された母親にキルトと湯たんぽの差し入れをするために来ていたのだが、本当の目的は、湯たんぽに巧妙に隠された極秘のメッセージを母親に渡すことにあった。そのこと自体は、きわめて理性的な行為であり、彼女自身もまたそうした事態を想定して育てられていたところがあるが、そんな理性とは無関係に、ローザの体ははじまったばかりの生理の疼痛に耐えていた。生理の生々しさは、純粋に女としての機能であるが、ローザの「自分探し」は、そんな女として誰かを愛し、また愛されるところから始まっていく。けっして理屈では計れない恋愛感情を求める彼女の行為は、理知の象徴である父親ライオネル・バーガーの影響から逃れることと同義となっているのだ。

 父親としてよりは、むしろ正義の人として、あまりにも偉大な人であった者を家族としてもってしまった白人の娘が求めた自由は、はたして彼女にどのような「まぎれもない自分」の姿を見せることになるのか。そして、自分が生まれ育った南アフリカという国とその政策を、外から捉えなおす機会を得たローザが、そこに何を見出すことになるのか――気軽に、と安易に言うことはできないが、理性と感情の狭間に翻弄されながらも、それでも自分の生きる「ところ」を求めずにはいられないローザの姿は、きっと私たちの心に響くものがあるに違いない。(2012.03.09)

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