【新潮社】
『ぶらんこ乗り』

いしいしんじ著 

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 小説家がなぜ小説を書くのか、という疑問は、おそらく私たち読者がなぜ小説を読むのか、という疑問と根本のところでつながっている。どうしても伝えたいことがあるから、現実とは異なった物語が好きだから、あるいは金を稼ぎたいから――理由自体はさまざまあるだろうが、もっとも根底にあるのは、そうしなければ自分がまぎれもない人間であることを忘れてしまうのではないか、という思いである。

 たとえば、ある男の父親が発狂して死ぬ、という受け入れがたい事実があったとする。それは、おそらくその男の力ではどうすることもできない、受け入れるしかない事実である。だが、男はこんなふうに思うことを止められない、自分にも発狂死する遺伝が受け継がれているのではないか。自分もまた、父親のような死に方をするのではないか。もちろん、根拠など何ひとつない。だが、根拠がないからこそ妄想が際限なく膨らんでいくこともありうる。であるなら、男は自分にとって納得のいく、もうひとつの現実をつくりあげていくしかない。なぜ父親が発狂することになったのか、彼なりに納得のいく因果を、物語という形で構築していく。そのことで、たとえ一時的なものであれ、男は心の平安を取り戻すことができるのだ。

 大袈裟なことを書いていると思われるだろうか。だが、小説を読んでいると、ときに作者が受け入れることのできなかった現実が、小説の世界のなかでもうひとつの現実――作者自身が納得のできる、もうひとつの現実として再構築されているように思えてくることがしばしばある。そう、小説家にとっての小説とは、もうひとつの現実を生きなおすための手段であり、それは自分が人間として、この世界にとどまっていくことにもつながる。そしてその思いは、その小説を読む側である私たち読者にも響いてくる。本物の小説には、それだけの力がたしかに宿っていることを、私たちはよく知っている。

「ぼくは、どうぶつのこえとおねえちゃんのわらいごえ、あっちがわへこっちがわへとゆれているぶらんこみたいなものなんだ」

 本書『ぶらんこ乗り』に書かれているのは、今はもういなくなってしまった弟のことである。誰よりも頭がよく、面白いいたずらを考えつき、ほら話を書くのが得意だった、いっぷう変わった弟――本書は高校生の「私」を語り手に、祖母がおもいがけず見つけてきた、弟が書き綴った古いノートを追うことで、かつてたしかに存在し、いっしょに暮らしていた弟の過去を思い出していく、という形をとっていく。

 はたして「私」の弟はどんな子どもだったのか、なぜ今はもういなくなってしまったのか――じつのところ、弟が今どうしているのか、それこそ生きているのか死んでいるのか、といった事実ははっきりと書かれてはいないし、またその事実を明らかにすることが本書のテーマでもない。この物語のなかで重要なのは、弟が書き残したノートをとおして伝わってくる、彼がどうしようもなく姉たちの生きている世界から乖離した存在になっていく過程である。

 ひとつ決定的な事件がある。ぶらんこに乗っている最中に、雹をのどに受けてぶらんこから墜落し、それ以降いっさい声を出さなくなってしまうという事件である。しゃべることができなくなったわけではない。ただ、地獄のようなおぞましい声しか出せなくなってしまったため、声を出して話をすることをやめてしまったのだ。人とのコミュニケーションの重要な手段のひとつである声を封じられ、姉とも筆談でしか言葉を交わさなくなった弟は、それ以降、庭の木に据えつけた大きなぶらんこの上で過ごすことが多くなる。そしてそこで、弟はノートにいろいろなお話を書き綴る。ゾウのローリング、ペンギンのおしくらまんじゅう、水中に泡の家をつくるクモ、麻薬中毒のコアラ――だが、「私」がてっきり弟の作り話だとばかり思っていたそれらのお話は、弟のぶらんこに夜になるとやってくるという動物たちから聞いた、本当の話であることを、ある日「私」は知ることになる。

 動物の話すことが理解できるようになったり、巨大な氷が突然庭に置かれていたりと、ずいぶんと奇妙なことばかりが起こる本書は、ともするとおとぎ話のような印象を読者に残しがちであるが、単純なおとぎ話として片づけてしまうには、あまりにももの悲しい雰囲気に満ちている。それはひとえに、「私」の弟が陥ってしまう状況が、当人の努力や意思ではどうすることもできないような、理不尽で問答無用なものであることに起因している。それは彼を、否応なく「この世」から「あっちがわ」へと引っぱり込んでしまう力だ。そして彼は、その理不尽な力に対して、物語を書くことで抵抗を試みる。ノートをつうじて私たちが垣間見ることのできる彼の姿は、まるで宙吊りになったぶらんこが前に後ろに揺れるかのように、「この世」と「あっちがわ」を行ったり来たりする、なんとも不安定な心の揺れである。

 だが、そうした「私」の弟の抵抗は、本書のなかであからさまに描かれることはない。あくまで姉である「私」の一人称で語られる本書において、私たち読者にわかるのは、彼が残したノートと、「私」の記憶のみであって、彼の置かれた状況がどのようなものであったのか、正確なところは何もわからない。しかしながら、何より彼が事件が起こってから、大半の時間をぶらんこの上で過ごすという事実こそが、なによりも雄弁にすべてを物語っている。そしてそのもの悲しさ――人の力のおよばない、大きな流れに翻弄されてしまう人々の哀しさだけは伝わるのだ。その雰囲気を作り出してしまう作風は秀逸の一言につきる。

 本書には、声を出さなくなった弟の代弁をするかのように、一匹の犬が一家の一員として暮らすようになる。「指の音」と名づけられたその犬は、体の半分の毛が剥げ落ちていて、いつしかその剥げ落ちた体が伝言板代わりに使われたりするのだが、たとえば弟と「指の音」、弟と「私」、あるいは父と母など、誰かが誰かのそばに寄り添う関係がいくつも成立している。このうえなく「あっちがわ」に引き寄せられている弟にかぎらず、誰かがそばにいてくれて、「この世」で生きていくための支えになったり、あるいは支えられたりする、というのは、人が人であるための、もっとも基本的なことではないだろうか。

「わたしたちはずっと手をにぎってることはできませんのね」
(中略)
「ずっとゆれているのがうんめいさ。けどどうだい、すこしだけでもこうして」
 と手をにぎり、またはなれながら、
「おたがいにいのちがけで手をつなげるのは、ほかでもない、すてきなこととおもうんだよ」

 それにしても、前回紹介した『麦ふみクーツェ』でも感じたことだが、著者の作品について何かを語れば語るほど、まるですくいとった砂が指のあいだからこぼれおちてしまうように、肝心なことは何ひとつ語れないと思わされてしまう。私ももはや、これ以上は何も語るまい。とにかく、このもの悲しくもいとおしい感じで読者の心を満たす本書を、ぜひとも味わってもらいたい。(2006.05.16)

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