【新潮社】
『武王の門』

北方謙三著 



 グローバルIT企業を謳う株式会社ライブドアの社長である堀江貴文が、ニッポン放送に対して仕掛けてきた買収劇について、世間では賛否両論あるようだが、堀江社長が常々主張するところの「既存メディアとネットの融合」が、既存メディアが抱える悪癖のひとつである一種の情報操作、つまり一部の人間の思惑によって真実が歪められるような情報が捏造されてしまうという現状から、真の報道の自由、本当に信頼性のある情報を発信する自由を勝ちとるためのものであり、その戦略のひとつとして件の買収劇が位置づけられているとすれば、それは非常に素晴らしいこととして、私も諸手をあげて賛同の意をしめすところである。ただ、私がどうしても堀江社長の考え方に懐疑的にならざるをえないのは、彼が報道や記事というものに関して、じつはたいして興味をもっているわけではないという姿勢が見え隠れしているからであり、それゆえに彼の主張に理想や志といったものを感じとりにくい、という一面があるからに他ならない。

 人間は幸か不幸か自我というものをもち、考えることを覚えてしまった生き物である。それは言い換えれば、ただ漫然と自身の一生を過ごしていくことを許さない、ということでもある。私たちは誰もが、この世に生きる目的を欲している。自分自身の、けっして長くはない生涯のすべてをかけてやるべきこと――壮大な夢や理想を胸にいだき、それに向かって進んでいくことができるとすれば、たとえ世間的には不遇の人生のように思われようと、その人は自身の人生を精一杯生き抜くことができたということができるはずなのだ。そしてそれは、人間としては非常に恵まれた生き方であるに違いない。

 本書『武王の門』は、後醍醐天皇の皇子である牧宮懐良(まきのみや かねよし)による九州平定の戦いと、そんな彼が心に描いた壮大な夢の形を書いた時代小説である。時は南北朝時代、武士の棟梁として後醍醐天皇とともに鎌倉幕府を倒したものの、その後すぐに朝廷から離反しあらたな幕府の頂点に立った足利家を中心とする幕府側と、古よりつづく天皇家を中心とする朝廷側とで、全国の武士たちがまっぷたつに分かれて争っていた、いわば戦乱の時代である。

 京の奪還をもくろむ後醍醐天皇の皇子として、そして九州の武士たちを朝廷の支配化に置くべく任じられた征西将軍宮として、九州の統一を目指すことになった牧宮懐良は、当然のことながら「朝廷側」という勢力の旗印として戦うことを宿命づけられた者であるのだが、著者である北方謙三が、ただたんに「朝廷=善」「幕府=悪」という構図の合戦ものが書きたかったわけでないのは、牧宮懐良が「朝廷側」「幕府側」といった従来の枠組みにとらわれない柔軟なものの考え方と、日本という島国内部のみに閉じていない、より開かれた視野をもつ人物として描き出されていることからもわかる。

 生れ落ちてしまった時代、宿命づけられてしまった血縁、そして避けられない九州制圧という役割――自身の意思とは関係なく、自分自身をなかば強制的に形作ってしまうさまざまなしがらみに悩みながらも、牧宮懐良はそのなかでまぎれもない、ひとりの人間としての自分自身を見つめ、何より自身の納得のいく生き方を見つけていこうとする。公家でありながら武士のように馬を駆り、剣をふるって合戦の最前線で戦うことをいとわない、いわば破天荒な人間として成長していく牧宮懐良は、人と接するときも身分というものにあまり頓着したりしない。彼のそういった開かれた性格が、九州における水軍や山の民、そして商人といった人々を味方につけ、また菊池武光をはじめとする武士たちの心をつかみ、当初はほんのわずかの軍勢でしかなかった征西府軍が薩摩に上陸後、さまざまな困難を乗り越えて徐々にその勢力を拡大し、ついには九州の統一をもはたしていく様子は、それだけで胸のすくような展開であることは間違いないが、それ以上に本書の大きな特長は、牧宮懐良の自由でありたいという願いが、戦いのつづく年月のなかで、しだいに自分以外の人々、とくに長い戦乱のために苦しむ名もなき民や、自分の血を受け継ぐ子どもたちへの思いへと、大きく成熟していく点である。

 そしてその思いは、いつしか牧宮懐良に朝廷軍としての九州統一ではなく、九州そのものをひとつの国として統一するという、壮大な夢をいだかせるようになる。

 武士は長年のあいだ、自らの領土のために戦い、それゆえにその領土を保障してくれる幕府と強く結びついてしまっている。地方の豪族どうしの争いが絶えないのも、武士たちが朝廷側や幕府側に分かれて戦うのも、すべて領土拡大という思惑があるからに他ならない。ならば征西府という旗印を中心としたひとつの国家として九州をおさめ、武士たちを九州という国を守るための集団としてまとめてしまえば、少なくとも今より無用な争いはなくなるのではないか――牧宮懐良が抱いた計画は、武士を現在で言うところの「軍隊」へと変質させようとするものであり、だからこその「九州国」へとつながっていくわけであるが、その根底にあるのは、人間ひとりひとりが自由意志をもつことのできる国、という確固とした理想である。

 それゆえに、牧宮懐良たちの戦いは、九州を平定してからも終わることはない。領土の代わりに武士にあたえる恩賞のために、海を越えた高麗国との結びつきを強め、商人たちに自由に交易させるための場を整え、そのいっぽうで幕府への恭順を求める中央や、属国として仕えることを強要してくる大陸の明に対しては、徹底して抗戦する姿勢を崩さない。あくまでひとつの国としての毅然たる態度は、牧宮懐良個人の態度としても貫かれており、自分の息子である月王丸を皇族としてではなく、海の民としての道を歩ませようとするし、自分の理想の跡を無理に継がせるようなこともしないのである。

 朝廷でも幕府でもない、これまでにないまったく新しい道をひとつの夢として追いつづける――それは、たしかに最初は、牧宮懐良自身がかかえるしがらみからの自由という願望から生まれたものであるかもしれないが、それが個人の思惑を超えたひとつの大きな夢の実現へと走りはじめたことによって、物語はたんなる合戦絵巻から新しい何かを生み出すための戦いへ、そして大きな夢の実現を目指してひた走る者と、その夢に自分たちの理想を託してともに戦う者たちによって彩られる、壮大な人間ドラマへと昇華していくことになる。

 天下は天下の天下にして、ひとりの天下にあらず。明快に、征西将軍宮は答えている。国王として、諸外国にも恥じない態度である。――(中略)――九州がひとつの国家で、征西将軍宮が国王だとしたら、明も侮り難い国と認めたに違いない。国の頂点に立つ人間は、誇りを捨ててはならないのである。

 時代小説、とくに天下統一を目指す戦国の時代を描いた作品が読み手の心をつかむのは、彼らが天下統一という、生涯のすべてを賭けるに値する大きな目的のためにひた走る姿に、今の複雑な世の中で、自身が何のために生きるのかという目標を見失い、立ち止まってしまっている読み手たちが心を重ね合わせようとするからに他ならないが、そうした爽快感、まるで風を切って疾駆していく人々の姿を生き生きと描きながらも、本書は日本という小さな島国の統一よりも、さらに大きくて壮大な夢を登場人物たちに託すことに成功した、胸を焦がすような熱いものを感じさせる作品なのである。変えられない宿命に縛られながら、それでもなお自由のために戦い、常に海を、その向こうにあるはずの見果てぬ国々へと目を向けていた牧宮懐良と、そんな彼の理想に自身のすべてを賭けるべきものを見いだした者たちの、まさに風のように駆け抜けたすがすがしいほどの生涯は、きっと読み手の心に大きな何かを残していくに違いない。(2005.04.15)

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