【みすず書房】
『ブロデックの報告書』

フィリップ・クローデル著/高橋啓訳 



 ちょっと前にどこかのジャニーズが「自分だけのオンリーワン」なんて歌を唄っていたのを覚えているが、自分が他の誰でもない、まぎれもない自分自身であるという認識が、はたしてどういう意味で重要となってくるのか、とふと思うことがある。

 自分が自分であるという認識、あるいはアイデンティティという言葉で表現されるものは、それこそ私たちの生活全般についてまわるものであって、勉強するのも、将来を決めるのも、ご飯を食べるのも、仕事をするのも他の誰でもない自分自身だ。他の誰かがご飯を食べたとしても、自分の腹は膨れないし、自分がかつて体験した過去は、けっして他人と共有されることはない。たとえ、ふたりの人間がまったく同じ出来事を同時に体験したとしても、その出来事の捉えかたが完全に一致するとはかぎらない。私たちが主観の生き物であるという言い方を、この書評を通じて何度か繰り返してきたが、その差異がある種の「個性」ということでもある。そんなふうに考えると、それぞれの主観のなかで孤立するしかない私たちの個性とは、ともすると私たちが考える以上に重荷であるかもしれないのだ。

 まぎれもない自分自身を意識することは、自分の言動の責任が他ならぬ自分自身にあると明確化することに他ならない。それは逆に言えば、自分という個性を放棄したとき、人は理性のたががはずれでどこまでも暴走するということでもある。何しろ自分の言動がまぎれもない自分に跳ね返ってこないのだ。メディアで報道された犯罪関係者に対する無言電話や誹謗中傷といった数々のいやがらせは、それを行なう側が匿名であるからこそ発生する。そして匿名性という特徴ゆえに、それを行なった張本人であったとしても、時間の経過によってそれが本当に自分のしでかしたことなのかという疑問が生じてくる。過去の自分が現在の自分とたしかに結びついている、という認識もまた、まぎれもない自分自身を支える大きな要素のひとつなのだ。だが、すべての人間がそんなふうに自分を律することができるほど強いわけでないことも事実である。

 収容所は僕にこういうパラドックスを教えてくれた。人間は偉大だが、僕らは自分自身の高さに追いつけないのだ、と。この不可能性は、僕らの本質に根ざしている。

 今回紹介する本書『ブロデックの報告書』の書き出しは、こんなふうになっている。「僕はブロデック。この件にはまったく関わりがない」――つまり、本書の語り手であるブロデックなる人物は、あくまで第三者的な立場から「この件」にかんする「報告書」をまとめ上げようとしていることを、まずは宣言したかったということになる。そして彼がそんなふうに念を押したがるだけの理由が、「この件」のなかにはある。というのも、「この件」とは、彼の住む村で起こった、村人たちによって引き起こされた殺人事件を指しているからである。

 殺人事件、と書きはしたが、今回の殺害について「事件性」があると判断する人物、つまり警官は、この辺境の小さな村には存在しない。彼は一年ほど前に終結した戦争に出征したさいに、命を落としてしまっている。そして村人たちに殺されたのは、三ヶ月ほど前に突如としてこの村にやってきた「よそ者」だ。村人の誰ひとりとしてその本名を知らず、その地方の方言で「他者」を意味する「アンデラー」と呼ばれていたその人物は、いったい何者で、どんな目的があってブロデックたちの住む村にやってきたのか。そしてなぜ彼は殺されなければならなかったのか、あるいは村人たちが、なぜ彼を排除しなければならなかったのか――本書の中心に置かれているのが、その事件のことであるのは間違いないところだが、たとえばミステリーのように、誰が犯人なのかを問いただせばすべてが解決するわけではないだけの複雑さが、その事件のなかにはある。

 誰かが誰かの命を奪うというのは、けっして軽いことではない。だが、現実の出来事としてそれは起きてしまい、文字の読み書きができる、そのための道具もある、学もあるということで、ブロデックにその出来事についてありのままを書くように依頼される。だがブロデックは、その依頼の裏にある村人たちの願望を知っている。彼らは、今回の出来事を忘れたがっているのだ、と。誰も真実など知りたくはないし、その重みを背負いたくもないということを、じつは彼が誰よりもよく知っているだけの事情があった。報告書を書くという体裁で話が進んでいく本書であり、その中心にアンデラーの殺害事件――ブロデックもふくめて、その事件を「エアアイクニエス」といういわく言いがたい言葉で表現せざるを得ないその一連の出来事があるわけだが、その過程においてブロデックは、彼が知るアンデラーのことを書くだけではおさまらず、自身の過去のこと、とくに戦時中に自身の身におきた収容所への連行、そしてそこで行なわれた、人間の尊厳が根こそぎ踏みにじられるような日々のことにも言及している。

 いっけん何の関連性もなさそうに思えるふたつの軸が、時系列もバラバラなまま書きつづられていく報告書は、村人たちが望む本来の報告書を隠れ蓑に、ブロデックだけの秘密として、そのすべての真実をありのままに書き出そうという意図のもとに作成されていくものだ。そしてそれは、論理性やわかりやすさといった、報告書に本来求められるはずの要素とは、言ってみれば対極の位置にあるものでもある。だが、本書を読み進めていけばおのずとわかってくるのだが、村人たちが結果としてアンデラーを死に追いやった理由を深く突きつめていくと、けっきょくのところ人間が人間であるために必要な、心の根本部分に触れざるを得ないということが見えてくる。そしてそれはおのずと、ブロデックが収容所に連行されなければならなかった理由ともつながってくるし、その背景には過去に起こった大きな戦争と、それにともなって彼の住む村を襲ったある悲劇が関係してくることになる。

「あんなふうに終わるしかなかったんだよ、ブロデック。あの男は鏡みたいなものなんだ。――(中略)――そして鏡はな、ブロデック、割れるしかないんだよ」

 ひとりの人間として正しく、誇り高く生きたいという願望は、誰しもが心に抱く高潔な意思だ。だが、暴力や脅迫、あるいは欲望といった負の要素が、しばしばごく普通の人々の心を打ち負かし、外道と思われるような行為でさえ平気で行なえるようにしてしまう。その負の要素の象徴として、本書ではかつてあった戦争が使われている。戦争においてひとりひとりの人間はただの「兵隊」という、顔のない存在となる。逆に言えば、個人が個人としての責任をかかえたままでは、同じ人間と殺しあうという戦争などできるはずもない、ということだ。そういう意味で、戦争で兵士たちが村人たちに行なったことも、収容所でブロデックたちを犬のように扱った者たちも、そしてアンデラーを殺害してしまった村人たちの行為も、けっきょくはたったひとつの要素から出てきたものであり、いずれにしろ同じようなものだということが見えてくる。そして、その認識こそが、ブロデックが秘密裏に書きつづった報告書の真の目的でもある。

 本書のなかには数多くの死に満ちている。死んでいった者は、それがじつは馬鹿馬鹿しい死であろうと、人間の尊厳を守るための高潔な死であろうと、死んだという事実に変わりはない。苦悩をかかえるのは、常に生き残ってしまった者であり、それはある忌まわしい収容所から生還したブロデックも例外ではない。生きていくために捨てなければならなかったもの――はたして村人たちが、ともすると実在の人物のように思えない、それこそキリスト教における神の子をさえ思われるような「アンデラー」のなかに、何を見出してしまったのかを考えると、どうしようもない切なさを感じずにはいられない。人が生きるということ、まぎれもない自分自身を生きることの意味について、あらためて問い直さずにはいられないものが、本書のなかにはたしかにある。(2010.04.21)

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