【東京創元社】
『霧に橋を架ける』

キジ・ジョンスン著/三角和代訳 

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 小説とは基本的に虚構を書いたものにすぎないが、だからといって書かれたものにまったく価値がないわけではない。むしろ虚構であるからこそ、往々にして作者の伝えたいことやメッセージ性がより鮮明に浮かび上がってくるものであるし、逆に言いたいことを直接言葉にしても、かならずしも相手がそのとおりに受け取るとはかぎらない。とくに、私たちがあたり前だと思い込んでいる常識を揺さぶるような事柄の場合、その常識の枠を一度私たちから取り払うためには、虚構がもつインパクトが重要だったりする。今回紹介する本書『霧に橋を架ける』は、とくにそのような印象を強くする短編集だ。

「人間の物語は人間にとってだけ、いいものだ」ゴールドはついに言う。「わたしたちがきみの物語を聞かねばならない理由があるかね?」

(『《変化》後のノース・パークで犬たちが進化させるトリックスターの物語』より)

 短編集のなかでも、とくに中篇と呼ぶべき長さのある表題作『霧に橋を架ける』は、ある意味で象徴的なタイトルである。ここで「霧」と呼ばれているものは、じっさいには腐食性の気体でできた川のことを指しており、人間の認識では理解不能なものの代表のような存在である。「霧」という呼び名は、そんな正体不明の危険なものに対して、便宜上名づけられたものにすぎない。舞台となっている架空の帝国では、その「霧」によって国土が東西に二分されており、その行き来が容易ではなくなっているという事実があるのだが、物語はそんな「霧」の川を渡る橋を建設すべく、帝国から派遣された建築家キット・マイネンが「霧」の左岸町にやってくるところからはじまる。

 それまでは渡し守が長年の経験と勘によって、独自の舟を操って人や物資を「霧」の向こう側へと運ぶしかなかった現状を、橋の建設という、人間の知恵と技術の結晶によって改善していくというこの中篇の流れは、ともすると単純に人間肯定の物語のようにとらえられがちではあるが、物語の焦点はそんな科学技術のほうではなく、むしろ正体不明の「霧」とともに生きてきた船乗りの側――より具体的には、先祖代々「霧」の渡し守をしてきて、またそれゆえに家族を次々と「霧」の犠牲にしてきたラサリ・フェリーの側にある。「霧」の川は、たんにそれ自体が腐食性があって危険というだけでなく、そのなかに生息する怪魚たちもまた危険因子となっているのだが、何よりそれらが人々から怖れられているのは、やはりそのいずれもが「正体不明」であるところが大きい。ラサリでさえ、ときに渡し守の舟を襲う「霧」の怪魚に特定の名前をつけられず、《でかいの》といった呼び方しかできていないのだ。

 橋が完成すれば、人々はより安全に川の両岸を行き来することができるようになり、それは人々の生活を一変させることになる。だが同時にそれは、ラサリのような渡し守の存在を無用の長物にする。科学技術の発展、人々の生活の向上とともに、否応なく変わっていかざるを得ない町の人々と、それでもなお橋を架けるという自身の責務をはたさずにはいられないキットの心の機微を描いた表題作は、それだけでもドラマ性のある物語ではあるのだが、より大きな視点でとらえたときに、けっきょくのところ「霧」の腐食性や怪魚の存在など、根本的な問題は解決しておらず、「霧」の川を舟で渡るにしろ、橋で渡るにしろ、じつはさほど大きな差はないのではないか、という見方もできる。

 どんな科学技術が発達しても、自然災害の猛威の前に現代を生きる私たちが成すすべもない――こうした人間存在のちっぽけさや無力感は、本書に収められた短編全般につながるテーマでもある。『蜜蜂の川の流れる先で』は、「霧」ではなく「蜜蜂」の川が人々の生活に大きな影響をおよぼしているし、『26モンキーズ、そして時の裂け目』に登場する猿たちの消失マジックは、それを使役するはずの人間にはけっして理解できない仕組みによるものである。宇宙船の衝突事故で、思いがけずエイリアンの乗る救命艇に同乗することになった「彼女」を主体とする『スパー』では、エイリアンの存在自体が人間側の理解やコミュニケーションの外にあるものとして登場する。いずれも、登場人物にとっては理解できないこと、わけのわからないものに対して、いかに折り合いをつけたり、あるいは独自の想像の羽根を広げていくかといった点が読みどころとなっている。

 本書に収められた短編は、ときに寓話めいたものも混じっており、それゆえにそこに特定のテーマを見いだせそうな雰囲気があるのだが、基本的には人間の力ではどうにもできない何かに翻弄される姿がそこにあって、それらにどのように解釈をつけるのかは、おそらく読み手にまかされている感がある。言葉を覚え、しゃべるようになることで、逆に飼い主から見捨てられる犬たちの運命を描いた『《変化》後のノース・パークで犬たちが進化させるトリックスターの物語』や、女の子たちのパーティーに隠された残酷な試練を書いた『ポニー』など、思いっきり皮肉のスパイスを利かせた作品もあるが、けっしてそれだけで本書のすべてを説明できるわけでもない。人の死もふくめて、私たちに理解できないものは、じつは数限りなくある――ともすると私たちは、自分たちが万能であり、あるいは自分の意思で何かを選択しているように思い込んでしまいがちであるが、けっしてそうではないということを、これらの短編集は物語っているように思える。

 その歩みは、たしかにちっぽけなものであり、あるいは大きな流れからすれば無に等しいものかもしれない。それでも私たちは、見えない向こう側に橋を架けるような行為をやめることはないし、またそれが無駄な行為だとも思っていない。そんな「人間」であるということを、ほんの少しでも思い返すことができるのであれば、本書を読む意味はじゅうぶんに果たされたと言うことができる。(2014.10.27)

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