【新潮社】
『その腕のなかで』

カミーユ・ロランス著/吉田花子訳 



 世の中、目に見えるものだけがすべてというわけではないが、それでも目に見えないもの、はっきりとした形のないものの存在を信じるのは、頭で考える以上に難しいことでもある。恋愛感情というものは、そうしたものの代表選手ではないかと思うときがある。
 男が女を好きになる。女が男に想いを寄せる――小説のなかにもひとつのジャンルとして確たる地位を獲得し、テレビドラマでもJポップのなかでもしきりに推奨されている男女間の恋愛は、しかし何をもって恋愛と位置づけるのかという問題を真面目に考えると、その実在性がかぎりなく曖昧なものとなっていくような気がして仕方がない。

 この書評をお読みの方々で、「これこそが真の恋愛だ」という定義を自分にも相手にもきちんと説明できる人は、はたしてどれくらいいるのだろうか。私はこと恋愛にかんしてはけっして経験豊かというわけではないが、出会った異性が自分に対してどのような想いをいだいているか、ということに関しては、けっきょくのところ相手のさまざまな言動から推察していくしかない、というのが正直なところで、それも数学の計算式のように万全のものではない。さらに突っ込んでみるなら、こうしたことはあくまで相手がどのように思っているかを知る手がかりになるかもしれないが、他ならぬ自分が相手をどう思っているかということとはほとんど関係のないことだ。

 この世界にいる人間の半分は異性である。ある意味とんでもない数の異性のなかからたったひとり、自分にとって特別だと感じる異性がいるとして、そう感じるからその人と付き合うためにいろいろと特別なことをしてあげるのか、あるいはそうした行為がその人を特別だという想いへと発展させていくのか。誰かを愛したとして、その先に何が生まれるのか。ゴールはどこなのか。セックスにたどりつけばいいのか、結婚すればいいのか、子どもが生まれればいいのか。恋愛感情には終わりはないのか。別の人に対する恋愛感情が生まれてはこないのか。生まれてきたとして、それは以前感じた恋愛とどう違うのか。愛は変わっていくものなのか、それとも不変なのか。本書『その腕のなかで』のなかで行われているのは、男女間の恋愛における究極の形を模索することだと言える。

 そろそろ中年にさしかかろうとしている女性作家の「わたし」は、本書の冒頭からいきなりある男性に一目惚れしてしまう。まるで雷に打たれたかのように、その男性――アマン・ドンブルが自分の探し求めていた人であることを確信した「わたし」は、彼が精神分析医であることを利用して、彼に近づくために夫婦関係のセラピーを申し込むことにする。じっさい、十五年近くも一緒だった夫との仲はあまりうまくいっておらず、離婚寸前でもあったのだ。だが、その精神分析医とふたりっきりになることが最大の目的だった「わたし」は、彼の気をひくために、これまで自分がかかわってきたあらゆる男性との関係について告白をしていく。

 そしてもはや、二種類の男たちしかいなかった。わたしが語る対象で、わたしを通じて物語をよみがえらせる男たちと、わたしが語りかける相手で、物語のつづきを与えてくれ、あるいはひょっとしたら、わたしをよみがえらせてくれるかもしれない男。

 こうして、本書はアマンとのセラピーを通じてふたりっきりでいる今という時間軸と、あえて「彼女」という三人称をもちいて、彼女の父親や夫をはじめ、初恋の相手や愛人、先生、歌手、役者、あるいは行きずりに男たちからイエス・キリストにいたるまで、その人生において何らかのかかわりをもったありとあらゆる男性のことを語っていく過去という時間軸が、交互に絡み合う形で進んでいくことになる。読者は本書を読み進めていくにつれて、およそ知り合った男性との肉体関係、その一体感をことのほか重要視し、自分がそうした関係からどれだけ相手のことを愛してきたかを至上のものととらえている「わたし」の価値観に触れることになるのだが、そうした彼女の価値観と、今現在、彼女が精神分析医に対していだいているはずの恋愛感情とのあいだに、ある種のズレが生じていることに気づくことになる。それは、「わたし」とアマンとのあいだに関して、セックスを中心とする肉体関係がまったく発生しておらず、あくまで言葉のやりとりのみを通じて、自分の恋愛感情を相手に伝え、また相手にも自分のことを好きになってほしいというひとつの試みである。

 恋愛感情が、形のないものの代表選手であると、この書評の冒頭で書いた。そんな形のないものを信じるのが難しいことを知っている「わたし」が、自身の女性としての体、性差という目に見えるもの、そしてその肉体が感じとる快楽を恋愛感情の拠り所にしていた心情は、察するのにそれほど難しくはない。本書のなかで語られる「彼女」の男性遍歴において、けっして恋人だった人だけでなく、父親やすぐに死んでしまった息子、あるいはじっさいには存在しない兄弟といった対象まで含めて語っているのは、そんな自身の恋愛に関する意識が、どのような過程を経て発生し定着したかを確認したかったからに他ならないのだが、そうした過去の男性遍歴すべてが、「わたし」の今、アマンに対していだいている恋愛感情とひとつの対極となっていると考えたとき、過去の恋愛において彼女がたしかに愛だと感じていたものは、はたして本当に愛と呼べるようなものだったのか、という疑問が頭をもたげてくることになる。

 物語の冒頭で、何の脈絡もなく生じた一目惚れという現象は、物語という観点からしても相当に唐突なものであるが、それを言うなら「わたし」が語る男性遍歴の断片、それこそ100以上にもなる断章という物語構造も、時間軸や登場人物とのつながりを考えると唐突で、およそまとまりのないものだと言える。だが、本書を構成する「今」と「過去」を、恋愛における「今」と「過去」というふうにとらえたとき、過去に彼女が経てきた数々の恋愛が、そのまま一貫したつながりのない断章の寄せ集めにすぎないものとしか見えなくなってくる。そうしたある種の冷めた視線は、どの断章においても相手の男をあくまで異性として――たとえ父親や夫であったとしても――とらえようと終始一貫しているところにも徹底されているのだが、過去がある種の「男の博覧会」化していけばいくほど、今における一目惚れという要素がひときわ輝きを増してくる。

 冒頭において「わたし」は、精神分析医である青年に一目惚れした自分を確信した。それゆえに、彼女にとって今回の恋愛こそが真実の愛であること、これまでの恋愛とは違う、唯一で至高の愛であることを確かめずにはいられなかった。だからこそ、彼女はこれまでの男性遍歴を、他ならぬアマンに聞かせる必要があったのだ。

 今まさに進行中の愛と、過去に経てきた数々の恋愛の欠片――はたして「わたし」の恋は、真実の恋愛として成就することになるのか、それともまったく違った結末を迎えることになるのか。愛とは何か、男とは何かということを、誰よりも真摯に考え続けたひとりの女性の行く末に、ぜひとも注目したい。(2007.10.24)

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