【講談社】
『脳男』

首藤瓜於著 
第46回江戸川乱歩賞受賞作 



 あなたは最近、夢をみるだろうか。

 夢とは、眠りという、意識の制御能力がゆるくなったときに、無意識の領域に沈殿していた種々雑多な情報が、表層に浮かび上がってくる現象のことであり、それは人間の五官とは無関係に起こる――言わば、脳の中でのみ起こる現象でもある。ゆえに、私たちは本来、夢を「見て」いるわけではない。ただ、私たちの自我が不要と判断し、無意識下に切り捨てた情報の大半が視覚から得たものであるために、まるで自分の目で夢を「見て」いるように脳が判断しているに過ぎないのだ。

 ところで、夢の源泉でもある無意識とは、いったい何なのだろう。いや、それ以前に私たちはいったい、いつから意識と無意識を認識するようになったのだろうか。専門的な解釈は置いておくとして、ひとつだけ明らかなのは、非常に優れた情報処理能力をもつ人間の脳が、たんなるコンピュータと違うのは、膨大な情報を取捨選択する自我があるかどうか、ということなのである。

 本書のタイトルにもなっている『脳男』――この非常にインパクトのある言葉が指し示しているのは、言うまでもなく、本書に登場する「鈴木一郎」なる人物のことだ。
 愛宕市内で次々と起こった一連の爆破事件――茶屋警部をはじめとする捜査員の懸命な捜索の結果、ようやく爆弾犯のアジトを突き止めた茶屋たちがそこへ踏み込んだとき、その当の爆弾犯と格闘していた人物、それが「鈴木一郎」だった。そして、物語はここから動きはじめる。

 大挙して押し寄せてきた警察の姿にまったく動じなかったばかりか、爆弾の木端を全身に受けながら痛みひとつ感じていないかのように立っていたこの男は、いったい何者なのか――逃亡した爆弾犯の仲間として逮捕され、愛宕医療センターの精神科医である鷲谷真梨子の精神鑑定を受けることになった、過去の経歴がまったく不明の「鈴木一郎」が、本書の中心人物であることは、疑いようのない事実だろう。実際、物語の前半は、主に真梨子を中心に「鈴木一郎」の正体と失われた過去を探ることに費やされており、後半は後半で、逃亡した爆弾犯による医療センターへの爆弾テロに、「鈴木一郎」がその特異な能力を発揮し、犯人を追い詰めていく様子を描いている。

 子どもとの接触によって「心」の問題に目覚め、精神科医への転身をはたしたものの、凶悪犯罪者とその犠牲者との板挟みで自身の善悪の判断基準に自信を失った過去を持つ真梨子や、身長一九〇センチの体躯で人間を軽々と投げ飛ばす豪快な一面と、犯人逮捕のために政財界の力が必要と考え、有力政治家とのコネクションを持とうとする周到な一面とをもつ茶屋警部もそれなりに魅力的な人物ではあるが、こと特異な、という点において、彼の右に出るものはいない。それは、彼が人間というよりも、むしろ機械に近い印象を漂わせている、という点に由来する。そしてここで言う「機械に近い印象」というのは、たとえば「冷酷な性格」とか「感情の起伏に乏しい性格」とかいうことの代名詞ではけっしてありえない。

 現在、世界はコンピュータによって動いていると言っても過言ではあるまい。ありとあらゆるものがコンピュータの制御によって管理され、そのおかげで人間は煩雑なルーチンワークから解放されたわけであるが、ひるがえってコンピュータというものに目をやったとき、それは単なる高性能な演算装置でしかない。わかりやすく言えば、あなたが今、この画面を見るために使っているパソコンが、モニターやキーボード、マウスといった周辺機器や、アプリケーションソフトがなければ、ただデータを蓄えるだけの箱でしかない、ということである。

 一度目にしたものをけっして忘れない、一度読みこんだ本の内容を完璧に暗記する――異常なまでの記憶力の持ち主でもある「鈴木一郎」の能力は、私たち人間の脳が本来もっている能力だと言うこともできる。人間の脳が、五官から得たあらゆる情報を保存する非常に優秀なコンピュータである、という考えは、とくに目新しいものではないが、では人間とコンピュータとの違い、もっと限定すれば、人間であることと、脳の作用との違いは何なのか、と考えたとき、そこに「心」の問題が立ち現われてくることになる。そして「心」の問題こそ、『脳男』のタイトルの裏に隠されたテーマであり、この物語の本質でもある。

 ある意味、本書における「鈴木一郎」と鷲谷真梨子との関係は、トマス・ハリスの『ハンニバル』におけるレクター博士とクラリスの関係を連想させるものがある。ただ、ハンニバル・レクターが怪物と言われながらも、芸術を美しいと感じる心――感情を有していたのに対し、「鈴木一郎」は生まれつき感情が欠落していたがゆえに、長い間自我を持つことさえできずにいた、ということなのである。

 感情がなければ、なにかを美しいと感じたり、神秘的な感情を抱いたりすることもできない、美しさや神秘感は、抽象的な思考ではなく肉感的な感情であるからだ。――(中略)――だからこそ人間は世界に触れることができ、世界のなかに同胞たちと存在していると実感することができるのだ。抽象的な概念や数式では、世界を説明することはできても、世界を実感することはできない。

 本書の中では、真梨子が「鈴木一郎」の過去を調べる過程において、ある酒屋の老人の好意によって、昔の彼を知る重要な人物のことを教えてもらうという場面がある。こうした人と人との直接的なコミュニケーションを描けば描くほど、その「心」とは対極の位置にいる「鈴木一郎」の存在が、よりいっそう際立ったものとして浮かんでくる。そして真梨子とともに彼の過去を探りながら、私たちはあらためて思うのである。なぜ、彼は爆弾犯と格闘していたのか。彼の目的は何なのか、と。

 感情がなければ自我もなく、それゆえに意識と無意識という領域そのものも意味をなくしてしまう。そんな世界のなかでたったひとりで生きてきた彼が、何を思い、何を考え、そして何のために生きているのか――ある意味、本書ほど自己の存在意義について考えさせられる作品はあるまい。(2001.03.12)

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