【講談社】
『少年H』

妹尾河童著 



 あなたは野球は好きだろうか。私は観賞するのもプレイするのもあまり好きではないのだが、かつて日本では、野球の「ストライク」を「よし」、「ボール」を「ダメ」と言わなければならない時期があったという。それは、日本が太平洋戦争でアメリカやイギリス相手に戦争をしていた1930年代の終わりから40年代のなかばくらいまでの時期で、敵対国が使う英語の表記が大和魂の育成の妨げになるとして、当時の内務省が出した禁止令だったらしい。

 私はこの話を、ずっと昔に父親から聞いて知っていた。父親は昭和二十年生まれで、戦時中のことを知っているわけではないので、十歳年上の兄か、あるいは両親からそんな話を聞いたのかもしれない。カタカナ語を禁止することと、戦争に勝つこととの関連性を冷静に考えると、まさにギャグとしか言いようのない禁止令で、そのときの私は大いに笑ったものだが、それはあくまで戦争を過去の歴史としてとらえることができる身だからこそできることであって、もし自分が当時の時代を――まさに戦争真っ只中の、ある意味で日本という檻の中に閉じ込められた状態にある時代を生きていたとしたら、はたしてその禁止令を大真面目に受け止めていたのだろうか。あるいは、馬鹿馬鹿しいと思いながらも、表面上は従うようにしていたのだろうか。

 今のように情報過多の時代にあってさえ、物事の真実を見極めるのはけっして簡単なことではないのに、ただでさえ情報が少ない時代、しかもその数少ない情報すらどこか胡散臭いものであるという時代において、人々は何を考え、何を頼りにして生きてきたのか――本書『少年H』は、まだ少年だった著者の戦争体験記ともいうべき小説であるが、本書を読み終えてまず思ったのは、あるひとつの時代に、たしかに人々が生きて生活していたというあたたかな記憶である。

『少年H』の「H」とは、本書の主人公である少年の名前「肇」のイニシャルを表わしたものであり、また彼のあだ名として知人や級友のあいだで定着していた呼び名でもある。敬虔なクリスチャンである母親の敏子が、当時ローマ字のイニシャルを編みこんだセーターを彼に着せていたのがことの発端であるが、この「H」というアルファベットが、たんに彼のイニシャルというだけでなく、本書における彼の立場をこの上なく雄弁に物語っていると言える。それは、昭和十年代の神戸という、外国人が多い街を舞台とした本書において、両親がキリスト教徒であること、父親が洋服店を営んでいること、それゆえに、彼にとって外国人と接することがとくに珍しいことではなく、むしろあたり前の環境に育ったという立場である。

 日本以外にも多くの国があり、そこには毛色の変わった人たちが、自分たちと同じように生活しており、またどんな宗教を信じているのかも人によって異なり、それは個々の人間の選択の自由である、ということ――今の私たちでさえ、ときによっては忘れてしまいがちなそんなあたり前のことを、あたり前のものとして受け止めることのできる環境にいたのが、他ならぬHの立ち位置である。その辺の部分をもっともよく象徴しているのが、本書の最初と最後のつながりだ。本書の最初では、よく洋楽を聴かせてくれたうどん屋の兄チャンが、共産主義者の疑いで警察に捕まったことが書かれるが、そのことを地元の新聞が何ひとつ記事にしていないし、またなぜ捕まらなければならなかったのかについても何ひとつわからず、そのことにHはなんとも言えないわだかまりを抱えることになるが、本書の最後のほうでは、戦後初の総選挙で共産党の議員が立候補し、その演説を聴きに行くという場面があり、Hはそこの群集の熱狂ぶりに、まるでみんながひとつのことしか考えていないように思えて怖いと感じるのである。

 けっしてみんなと同じようにはならない、ひとつの色に染まりきることなく、常にどこか離れたところから疑って考えるような、ある意味ひねくれた考えをもつというHの性格は、本書の通じて変化することのない視点である。

 もっとも、H自身はまだほんの子どもでしかない。彼自身も洗礼を受けたクリスチャンではあるが、ことあるごとに「神」や「愛」などといったことを語り出す母親ほど信仰に熱心なわけではなく、むしろそんな母親の目を盗んでは、いかにも子どもらしい遊びや悪戯に精を出す、いわゆる腕白坊主であり、そんなひとりの少年の目から見た世界が描かれていく。時代はまさに日本が世界大戦へと足を踏み入れようとする頃であり、そこからHが成長していくにつれて、ますます日本が戦争の泥沼にはまりこんでいき、人々の生活も少しずつ不自由で窮屈なものになっていくのだが、そこにはたとえば、戦争の悲惨さや罪といった重いテーマがあるわけではなく、あくまでひとりの少年の目に映った戦争の姿を描いていくことに終始している。

 日本が戦争をつづけることには反対ではあるが、戦捷祝賀会の特配に目がくらんで「戦争で勝つのもええなあ」と思ってしまったり、なんとかお小遣いを稼ごうと、小学生であるにもかかわらず知恵を働かせて商売をしたり、読書は聖書しか許さない母親に隠れてこっそりと漫画や小説を読んだり……といったHの姿は、いずれもそのシチュエーションは異なるものの、誰もが子どもだった頃は一度や二度は経験してきたことばかりであり、思わず微笑ましい思いにとらわれるのであるが、こうした、あくまで少年の視点から戦争を描くという方針のもっとも根底にあるものが何なのかを考えたとき、そこにあるのはやはり子どもたちにも感情移入しやすいように、という配慮である。本書の冒頭で著者自身も断っているように、本書の構成が多くの漢字にルビを打つというものになっていることからも、著者は何より子どもたちにこそ本書を読んでほしいと願っているに違いない。

 戦争がなぜいけないことなのか、そしてそのいけないことが、なぜ今もなお世界のどこかで起こってしまうのか――日本のかつて行なってきた戦争を直接体験することなく育ってきた人々が、すでに人口の大半を占めるという時代を生きる私たちにとって、戦争はとにかく「悪いこと」という教育のされかただったように思われるが、なぜ、どのように悪いのか、ということを具体的に考えるのは、今後ますます難しくなってくるだろう。その明確な答えが、本書のなかにあるわけではない。だが、今を生きる少年少女が本書を読むことで、少年Hの視点を借りてどこか滑稽で、どこかヘンなかつての戦争と、それゆえに起きた大きな悲劇と、さらにそこから不死鳥のように甦ろうとしていくたくましい人間の姿の一端を感じてくれるのであれば幸いである。(2006.07.10)

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