【角川書店】
『フロイトの函』

デヴィッド・マドセン著/池田真紀子訳 

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 人が眠りについているときは、比較的眠りが浅い「レム睡眠」と、深く眠っている「ノンレム睡眠」が交互に繰り返されるものだという話を聞いたことがある。疲れた体を休めて疲労回復にあたるのが睡眠の本来の目的であるとするなら、ともすると目を醒ましてしまいかねない浅いレム睡眠よりも、より深い眠りであるノンレム睡眠が長くつづくほうがいいに決まっているし、そうなれば、より短い睡眠時間で効果的な休息をとれるのではないか、と何事につけ時間が足りないと感じる私などは思ってしまうのだが、レム睡眠時において、人間の脳は目を醒ましているときに蓄積した雑多な情報を整理するとされており、また寝返りなどの運動によって体の一部が圧迫されるのを和らげるのも、このレム睡眠時であることを考えると、あながちレム睡眠というのも馬鹿にできないものがあると言わなければなるまい。

 さて、このレム睡眠時における脳の活動によって、とりあえず必要ないと判断された五官の情報が、無意識下に追いやられていくわけであり、それゆえに人間の脳は、これまで見たり聞いたりしたことを忘れるわけではないとされているのだが、その無意識下の記憶の断片が人間のみる夢だとするなら、たしかに夢というのは、その人の無意識下の領域を探るための大きな道標になりうる可能性を秘めていると言える。だが、他ならぬ人間の脳が秩序立て、体系立てるさいに不要なものとして切り捨てた部分、いわば混沌の領域に、どこまで人間の知識がおよぶのか――人は古来から、夢にさまざまな意味合いを求めてきたが、無意識という概念そのものがまだ新しいものであることを考えても、人がみる夢というのはまだまだ不思議な、謎の多い領域であることだけはたしかなようである。

「これはまた別の夢だということだね」ぼくは小声で言った。
「夢のなかの夢のなかの夢よ、ヘンドリック。これは夢の詰まった函なの。あなたはその一番奥の函にいるのよ」

 本書『フロイトの函』という作品について、その内容を説明するのは非常に難しい。なぜなら、本書のなかにはたしかなことなど何ひとつ存在しないからである。舞台となっている場所も、その時代背景も――しいて挙げるなら、物語としての始点や終点でさえも――はっきりしていないこの作品のなかで、語り手である男はいきなりすべての記憶を失っている自分に気づくことになる。自分がいつからこの食堂車にいるのか、そして自分はこの汽車にいつから乗っていて、どこへ行こうとしているのかまったくわからないという状況で、いきなり物語のなかに放り込まれた語り手は、言ってみればまったくのゼロの状態から物語を進めていかなければならない羽目に陥っているわけだが、そんな彼の導き手として登場するのが精神科医のジークムント・フロイトであることを考えたとき、本書は無意識の世界――自身の夢のなかの世界へと彷徨いこんだ語り手が、失われた自己を求めて遍歴する物語であると位置づけることができる。

 とは言うものの、その導き手がフロイトであるという事実――それも、本人が言うところでは、自分はあのフロイトとは違う、同姓同名の、しかし精神科医ではあるもうひとりのフロイトだという事実が物語にどのような影響を与えるかといえば、ともすると下品なという表現さえつきかねない性的倒錯へと全体が傾いていくことだったりする。じっさい、誰かに性的暴行を受けそうになったという語り手の話を聞いて、その犯人を確かめるために思いついたのが、車掌を相手に同じ目に合わせるというものであるし、失われた過去を探るため、博士に催眠術をかけられることになった語り手は、次に目を覚ましたときにはなぜかブリーフ一枚で雪のなかに立っていることに気づくことになったりする。

 まったくの白紙である語り手を相手に、ともするとあらゆる事柄を性的欲求に結びつけようとするフロイトのやり方は、フロイト心理学のパロディーとも言うべきものであり、ともするとお笑い芸人のコントを思わせるようなおかしささえあるのだが、それ以上に本書で展開していく物語の脈絡のなさは、ともするとすべてが夢のなかの出来事ではないかと勘ぐっても不思議ではないものがある。そもそも、便宜上ヘンドリックと名づけられたこの名無しの男には、自分のことが何ひとつわかっていないという大前提がある。それは逆に言えば、彼には自分と他者とを隔てる境界線が、この上なく曖昧だということでもある。なぜかスカートを履いて田舎屋敷に招待されたヘンドリックが、そこでなぜかヨーデルの世界的権威として講演することになったりするという展開は、普通に考えれば相当におかしなことであることは間違いないが、彼が何者でもないという大前提は、必然としてそのおかしな状況をすべて容認してしまうことになってしまう。なぜなら、彼が記憶を失う前は本当にヘンドリックという名の、ヨーデルの世界的権威であるという可能性だって、けっしてゼロではないのだから。

 重要なのは、ヘンドリックの正体について、読者もふくめた誰にも確かめようがない、という点であり、そうである以上、彼の主観で認識するこの世界が、はたして現実なのか、あるいは夢のなかの出来事なのかもまったく判断がつかないどころか、考えれば考えるほど、夢のなかの夢なのか、さらにそのまた夢のなかなのか、というはてしない夢の入れ子状態へとはまり込んでいくという点でもある。眠りと覚醒という両極の境目さえもが曖昧になっていくなかで、フロイト博士が象徴する性的衝動が唐突に喚起されていく、はてしない無意識の世界――そんな世界のなかに、なにかしらの意味を求めていくことは、けっきょくのところ、世界に意味のある事物を追究していったあげく、最後にはすべてを捨て去ることで永遠に崩壊してしまったウヌム・ムンドュス・キュービックのようなものだ。

 形あるものはいつかは壊れ、どんなに永遠を求めたとしても、何かのはじまりは必ずその終わりがさだめられる運命にある。時の流れはけっして止められないし、人がこの世で生きていくことは、来るべき死に向かって疾走していくことと同義である。何かを決定づけるあらゆる事柄を曖昧にし、すべての境界の壁を取り除くべく書かれた本書は、いつかは必ず終わってしまう物語を永遠のものとするための、ひとつの大きな実験だと言うことができるだろう。だが、その終わりのない夢の彷徨が、はたしてその人にとって真の幸福であるのかどうか、それはまさに神のみぞ知る、である。(2007.03.12)

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