【早川書房】
『ボトムズ』

ジョー・R・ランズデール著/大槻寿美枝訳 

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 以前、舞城王太郎の『世界は密室でできている。』を書評したとき、少年と死という組み合わせが、青春小説における王道のひとつであると私は述べた。青春小説のなかで、少年だった主人公は数々の体験を経て成長していく。成長とは、世の中のさまざまな事柄を身をもって知ることでもある。おそらく、子どもが大人になる最初のきっかけとして、何らかの形で「死」に触れること――言いかえれば、自分が人間であり、そうである以上、自分もまたいつかは死ぬという事実、自分に与えられた時間は、けっして永遠ではありえないという事実を知ることが、人間の成長には重要なことのひとつだということなのだろう。

 人の死をまのあたりにすることは、「死」という得体の知れないものについて深く考えるひとつの契機でもある。ともすると、私たちは死を怖れるあまり、むやみにタブー視し、まるで腫れ物でもさわるかのように遠ざけてしまう傾向にあるが、汚いもの、醜く恐ろしいものにはとにかく蓋をして見えないようにすることだけが、けっして良い結果をもたらすわけでないことを、私たちは知っているはずである。子どもはときに死や異形に魅了され、純粋であるがゆえに残酷な存在でもあるが、そこから「死」と直面し、それを自分のこととして想像することのできる人間として成長するか、あるいは他人の痛みにまったく無頓着な、自分でものを考えることを放棄した人間になってしまうかは、ひとえに導き手である周囲の大人の責任だと言える。

 本書『ボトムズ』は、現在老人ホームで死に瀕しているひとりの老人の独白、という形式で進められていく、サイコホラーの要素の混じったミステリーである。彼が11歳の少年だった1930年代の頃に、彼の家族が住んでいたテキサス州、サビーン川沿いの低湿地(ボトムズ)に広がる深い森のなかで起こった連続猟奇殺人事件――妹のトマシーナとともに、その森に迷い込んだ少年ハリーは、そこで全身を切り裂かれ、イバラと有刺鉄線で縛られた裸の黒人女性の死体を発見する。ハリーの父で治安官のジェイコブは、この異常な殺人事件の捜査に乗り出すが、当時まだ黒人蔑視の強く残るその町の白人たちにとって、ひとりの黒人女性の死はまともに扱うに値しない出来事にすぎなかった。似たような手口の、黒人女性ばかりを狙った殺人は、じつはこれが最初ではなかったのだ……。

 はたして犯人は誰なのか? ハリーがこの目で見たと信じているように、森の中を徘徊する伝説の怪物「ゴート・マン」のしわざなのか、貨物列車で移動する黒人の渡り労働者の犯行なのか、それとも、この町の住人のなかに殺人鬼が混じっていて、普通の人と同じように何食わぬ顔で生活を続けているのか――こうした犯人探しの部分も充分気になるところであるが、それ以上に読者の心をとらえるものがあるとすれば、それは1930年代のアメリカ未開拓地で生きる人たちの、どこか野卑で荒々しい雰囲気そのものであると言えよう。

 自分がまだほんの子どもだった頃に起こった殺人事件を軸に、緑豊かでどこか妖しく、まるで魔法のように神秘的だった少年時代への郷愁を描いた作品としては、ロバート・R・マキャモンの『少年時代』が有名だが、本書は同じ少年の思い出を描いていながら、けっしてその思い出を光輝く宝石のようにはとらえていない。たとえば、本書における自然とは、けっしてその雄大さや美しさばかりが強調される場所ではなく、ダニやブヨ、毒ヘビがうようよいるような、けっして普通の人間を受け入れることのない陰湿な場所なのだ。昼なお暗く、じめじめとした低湿地――そこは、半身がヤギで半身が人間だという「ゴート・マン」や、100歳になる黒人女性ミス・マギーが語る、悪魔に魂を売り渡した「トラベリング・マン」など、人間の想像力が生み出した怪物たちが生息していても、何の不思議もなさそうに思えてくる。

 電気も水道もなく、トイレも野外にしかなく、あたり前のように家畜が放し飼いにされているような未開拓地では、たとえ家の中であっても、けっして光の届くことのない無謬の闇がわだかまっていた。本書の大きな特長のひとつは、そうした未開の環境がもたらす闇と、人々の心の奥に巣食う残酷さ、非道さという名の闇とが、見事に呼応して描かれているという点だ。ハリーは当初、黒人女性を殺したのは「ゴート・マン」だと思っていた。その確信にも似た思いは、ずいぶん長くハリーの心をとらえていたが、白人たちによるあからさまな黒人差別、自分たちと同じ人間でさえないという傲慢さ、そしてそうした傲慢と偏見がもたらす黒人たちへの壮絶なリンチの場面は、父親のジェイコブをはじめとしてそうした差別意識のない大人たちに囲まれて育ったハリーには、死体の解剖現場をこっそり覗き見する以上の衝撃だったに違いないことは、容易に想像できる。本書におけるハリーの成長とは、文字どおり人間を――得体の知れない闇を心に抱く人間を知ることにほかならない。

 私たちは、「ゴート・マン」なる殺人鬼など、本当は存在しないことを知っている。人間の生み出した科学文明は、自身の住む環境から夜の闇、自然の闇を払拭してしまったが、そのことによって逆に、人々の心の闇がますますはっきりと見えるようになったのだとすれば、それはある意味壮絶な皮肉だ。「ゴート・マン」という怪物の存在は、ハリーにとって恐怖の対象であると同時に、人間がその気になればいくらでも残虐になれるというまぎれもない事実を否定するための、最後の砦でもあったに違いない、と私は本書を読み終えてあらためて思う。だからこそ、連続猟奇殺人事件の犯人を追うことで成長していくハリーの姿が、逆に痛々しくさえ見えてくるのではないか、と。

 ほんの少し前まで、私はなんの心配事もない幸せな子どもだった。時代が大恐慌だということも知らず、ましてや理髪店で読む雑誌の外の世界に殺人者がいることなど思いもしなかったし、私が読む雑誌には、こんなひどいことをする殺人者は一人として出てこなかった。――(中略)――要するに、一本の木に有刺鉄線で縛りつけられた気の毒な女性を私が見つけた夜にわかった以上のことは、だれもろくにわかっていないということだ。

 たとえ自分が孤立しようと、けっして黒人差別に同調することのなかった父や、年寄りでありながら快活で豪快、ハリーとともに殺人事件の犯人を探す祖母をはじめとして、本書にはじつに個性的な人々が登場するが、忘れた頃に挿入される、語り手がすでに死のまぎわにある老人であることを示す記述は、彼の語る物語の登場人物たちの、ほとんどすべてが過去に属しており、誰もこの世にはいなくなってしまったという事実を読者に思い起こさせる。あなたはこの老人の、けっして楽しいとは言い難いひとつの思い出を聞いて、いったい何を思うことになるのだろうか。(2003.09.21)

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