【早川書房】
『本泥棒』

マークース・ズーサック著/入江真佐子訳 



 人間が人間であるための条件として、もし「言葉を使う」という項目があてはまるとするなら、その人間が編み出した言葉というものもまた、多分に人間臭い要素をもっていると言える。意思の疎通を行なうための道具としては、けっして完全なものではない言葉は、それゆえに余計な誤解やすれ違いを生み出してしまうし、また使い方によっては肉体にくわえる暴力以上に相手を傷つける武器にもなりえる。だが同時に、言葉は不完全であるがゆえに思いもかけない効果を相手にもたらすことがあるし、そもそも力強い言葉というのは、相手の心を強く揺さぶるものでもある。

 こうした言葉の二面性というのは、そのまま私たち人間がかかえている二面性でもある。言葉の不完全さを補うために私たちが付加せずにはいられない想像力が、そうした言葉のもつ性質をますます強くしていく。人を生かすための力にもなれば、人を殺すための力にもなる言葉――今回紹介する本書『本泥棒』は、ある意味で私たちがよく用いる言葉というものの本質について、あらためて考えさせられる作品でもある。ただ、そのことを意識させるのは、本書の語り手ではない。あくまで彼が見守る対象である人間が、言葉というものに翻弄されるような人生であるからこそのものである。

 本書の語り手は死神である。それは、語り手自身がはっきりと明言するわけではないのだが、物語が進んでいくにつれておのずとわかってくるようになっている。そしてそれゆえに、本書はひとつの必然として多くの人々の死の場面を内包することになるのだが、本書において語り手が死神であるという事実は、じつは死神本人が言っているほど「どうでもいい」要素ではない。なぜなら、死神は死神であるという理由で、人間とかかわりをもつ場合には、必ずその近くに誰かの死があるということであり、それは逆にいえば、語り手は人間の死を媒介にしないかぎり、ある特定の人物に接近することができない、ということを意味するからである。

 ときに自分の仕事に対して愚痴をこぼしたり、ときに死にゆく人々に対して同情的だったりと、妙に人間臭さを感じさせるその語り手の死神が、他ならぬ死にゆく人間ではなく、生きている人間について語る、というのが本書の基本であり、同時にひとつの矛盾でもある。本書の冒頭部分でも示されているように、語り手が「本泥棒」――リーゼル・メミンガーという名の少女と相まみえるのは、じつのところたった三度しかない。にもかかわらず、語り手は誰よりもリーゼルの人生について知っているようであるし、じっさいに彼を語り手として進んでいく本書は、リーゼルを主人公とした物語も同然のものとして展開していくことになる。

***八方美人男が本書に感じた疑問***
1:なぜ死神は、リーゼル・メミンガーの人生に興味を示すのか。
2:死神とリーゼル・メミンガーを結びつけるものは何なのか。


「本泥棒」とタイトルにあり、またリーゼル自身がしばしば「本泥棒」と呼ばれているように、彼女はその少女時代において何度か本を盗む。だが、そこに秘められた意味は、盗むたびに異なっている。最初に本を盗んだのは、列車のなかで弟が死んで、墓地に埋葬されたとき。そのときの彼女は、まだ文字を読むことさえできなかった。時は1939年、ナチスドイツが台頭し、まさに第二次世界大戦が勃発しようとしている時期に、リーゼルはドイツのミュンヘン郊外に住んでいる里親のもとに引き取られることになっていた。弟が死んだのは、その最中のことだったのだ。

 弟の死と、どこかに連れていかれてしまった母親――まだほんの子どもにすぎないリーゼルにとって、なぜ自分が母親と離れ離れにならなければならないのか、母親がその後どうなったのか、そしてどんな時代背景が、そうした悲劇を引き起こすことになったのかなど、わかるはずもない。彼女に唯一できたのは、墓掘り人が落とした『墓掘り人の手引書』という本と、自身の身に起こった事柄をとにかく結びつけるということだけだった。だが、リーゼルの里親となったフーバーマン家、とくに父親代わりとなったハンスが彼女に少しずつ読み書きを教え、リーゼルの世界は徐々に広がっていくことになる。

 リーゼルと本との関係は、本書を読み解くさいに重要な要素のひとつであるが、彼女が墓場や焚書の山、あるいは知り合った町長夫人の書斎から本を盗み出すときは、いずれも彼女の人生において理不尽な出来事に見舞われたときにかぎられている。文字を覚え、本に書かれた内容を理解できるようになったリーゼルにとって、本は多くの知識をもたらすものとなったが、だからといって彼女を取り巻く不幸な状況が改善されるわけではない。だが言葉というものが、たとえばヒトラーに象徴されるように、ときに巨大な力となって群集を動かすものとなることにも、リーゼルは薄々気がついている。盗んだ本を読むこと――それは彼女にとって、当初はたんに現実逃避の手段でしかなかったかもしれないが、とある理由によって家の地下にかくまうことになったユダヤ人、マックス・ヴァンデンブルクとの交流が、彼女の意識を再び変えていくことになる。

 ある意味、ファンタジー的な要素をもつ『アンネの日記』というイメージが色濃い本書であり、じっさい物語はその後、マックスという要素ゆえに緊迫した場面を迎えることになるのだが、リーゼルが最終的に本を読むことから、本を書くことへと移行していくことになったのは、このユダヤ人の存在が大きい。ナチスと台頭とともに、地下室のなかで隠れ住むという生活をつづけることを余儀なくされたマックスは、同じようにこの家にやってきて、同じように悪夢に悩まされているリーゼルのために物語を書く。不自由な状況から生み出されていった物語の存在は、彼女に言葉の力をはっきり示すための道具となった。それは同時に、それまで現実を忘れるための言葉から、あらたな現実を創造するための言葉へと劇的に変化していくきっかけにもなる。

 語り手の死神は、常に人の死と結びついている。そういう意味で、第二次世界大戦下のドイツという舞台は、彼がもっとも活躍できる場でもある。だが、この妙に人間臭い死神が、まさに死神であるという自身の要素ゆえに、陰鬱な人の死にうんざりしていたとするなら、リーゼルや、彼女にとって良き友人でありつづけたルディのような、まさに人間の生を象徴する存在が、ことのほか彼の興味を惹いたとしても不思議ではない。

 戦争と民族主義、多くの悲劇と何万という人間の死に彩られた時代のなかで、はたしてリーゼルという名の「本泥棒」は、どのような命の輝きを見せることになるのか。そして、彼女と本との関係、さらには死神と彼女を結びつけるものとの関係がどのようなものなのか――物語としてもさまざまな要素を詰め込んだ本書を、ぜひ楽しんでもらいたい。(2007.10.11)

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