【新潮社】
『本にだって雄と雌があります』

小田雅久仁著 



 たとえば、私が今更ながら何か小説を書いたとする。その原稿は原稿用紙かノートに手書きされたものかもしれないし、今ならさしずめパソコンのテキストエディタソフトあたりに打ち込んだものかもしれないが、このままの状態では不特定多数の誰かに読んでもらうことはかなわない。書いた原稿を誰かに読んでもらうためには、基本的にその原稿を「本」という形あるものに変換してやる必要がどうしても出てくる。

 今でこそ電子書籍という選択肢もなくはないものの、およそ「読む」という行為に特化したツールとして「本」ほどメジャーなものは、今のところ存在しない。そしてここでいう「本」とは、出版業界における流通活動を含めたものを指している。出版社によって編集され、印刷所で刷られた本が、取次を経て全国の書店の店頭に並ぶ――言い換えるなら、書かれた原稿が「本」という形をとるとき、そこには書き手の「誰かに読んでもらいたい」という意思がまず存在するはずなのだ。だからこそ本は、誰かに読まれるという前提をくつがえされることはない。

 だが、そうした前提が前提として機能しないような世界が、今回紹介する本書『本にだって雄と雌があります』のなかには描かれている。

 が、確かに本は増える。雄本だの雌本だのはともかくとして、本と本とのあいだに読んだことも見たこともない本が、いや、それどころか、出版されたことも書かれたこともない、この世界に存在しないはずの本が、一夜にして忽然と出現する。

 ごく平凡なサラリーマンである語り手の土井博が、息子の恵太郎に語って聞かせるというスタイルで展開する本書であるが、その内容の大半は語り手の母方の祖父である深井與次郎のことであり、また彼が「幻書」と呼んでせっせと蒐集していた本にまつわるエピソードである。そして本書のタイトルとなっている「本にだって雄と雌があります」という文句は、何かとお茶目なところのあった與次郎が、本と本のあいだで知らないうちに増殖する幻書のことを説明するために用いた、もっともメジャーな言い訳でもある。まるで生物であるかのように、本というものにも雄と雌があり、ということは自然の摂理として雄本と雌本が人目を忍んでぜっせと房事にふければ、そこから子どもの本が生まれてくるのも道理だというのである。

 しかしながら、少なくとも語り手の視点のなかで捉えられる世界において、ある日突然本が増え、どころかその「幻書」が鳥のごとく部屋のなかを飛び回ったりする。これはよくよく考えると相当に気味の悪い光景ではあるのだが、本書を読み進めていくと、この奇怪な「幻書」のことは、語り手と祖父與次郎のみが知る秘密であり、祖父のいかにもでっち上げっぽい「本にだって雄と雌があります」という文句も、その秘密を覆い隠すためにこそ機能しているということが見えてくる。つまり他の親族たちは、本は勝手に増えるのではなく、祖父が道楽で「普通の」本を買い込んでくる「言い訳」としてそんなふうに言っているだけ、という認識なのだ。そして與次郎のふだんの性格――物事をどこか茶化したり冗談めかして語ったりする性格もまた、この巧妙なカモフラージュに一役買っている。

 この祖父の性格は、じつのところ語り手である土井博が本書で語るさいにも脈々と受け継がれているところがある。もっとも、よく文章の最後に「というのは嘘で」とかいう断りを入れてしまったりするところが、図太い祖父になりきれない語り手の平凡な人柄をかもし出しているのだが、もうひとつ大きな特長となっているのは、本書が「幻書」の物語であると同時に、與次郎をはじめとする一族の歴史を紐解く物語、という体裁にもなっている点である。

 じっさい、いかにもファンタジーとしての要素をもつ「幻書」の存在は、それだけでおおいに読者の興味を惹く要素であるが、物語はその最大の謎をはぐらかしていくかのように、いっけん何の関係もなさそうな語り手の先祖の話へと脱線していく。與次郎の父である正太郎が書いたという毒にも薬にもならない小説の数々、その祖父仙吉をコレラから救ったという鬼才の医者、黒川宏右衛門のこと、画家としての才がありながら、読み書きについてはとんと苦手な與次郎の妻ミキ、さらには彼らがもうけた四人の子どもたちのエピソードから、與次郎のライバルとも言うべき「幻書蒐集家」であり、とあるきっかけで生涯しゃっくりの止まらない体質をもつ亀山金吾との確執にいたるまで、いかにも與次郎という破天荒な人物を象徴するかのような一族の歴史は、その軽妙な文体も相まってなかなかに興味深い物語として仕上がっている。

 しかしながら、本書における「幻書」としての要素と、與次郎一族の数奇な歴史伝承としての要素について、どちらが主でどちらが従であるかといった比較は無意味である。それどころか、このふたつは本書の骨子として、どちらも切り離すことのできないものであることが、本書を読み進めていくうちにわかってくる。そしてそれは、「幻書」がもつ特質――本と本とのあいだに、知らないうちに生まれおちているという、まるで生き物のような特質と大きな関係がある。

 上述したように、本という形式は本来、その書き手の「読ませたい」という意思の力が前提となって存在するものである。自分の主張、継承したい知識、忘れることのないようにしたい過去の記憶――そこにあるのは、ともすると忘却されてしまうものに対する人のささやかな抵抗だとも言える。しかし「幻書」というのは、そうした意思とは無関係に、勝手に本の形となって出現する。たいていは二冊の本の内容が混交したようなものであるが、ときには誰にも語られていない過去の秘密や、まだ至ってない未来が書かれていることもあるという。読んでほしいという意思があるから本が刊行されるのではなく、本が発生することではじめて人間の意思が生まれてくるという因果の逆転を象徴するもの、それが「幻書」ということになるのだが、それはそのまま、私たち人間の「なぜ生まれてきたのか」というラディカルな命題とも直結している。

 自覚のあるなしにかかわらず、誰もが誰かの続きを生きる。そしてもちろん私の続きもまた別の誰かが生きていく。僕も途中なんやな、と思った。僕だけやなくて、みんなみんな途中なんやな、と。

 本のなかに書かれた物語は、いずれは終わりを迎える。もとより永遠につづく物語など、人の手による本という形式ではありうるはずのないものだ。だからこそ人は「終わらない本」というものに憧れを抱いたりするのだが、本と本のあいだから生まれてくるという「幻書」とは、まさに「終わらない本」を体現するものである。そして私たちの人生もまた、常に誰かの物語の続きであり、それは永遠へとつながっている。私たちがこの世に生を受けた意味、個としての自由意志と、あらかじめ定められた運命――はたしてあなたは、幻書の羽ばたく音のなかにどのような物語を見いだすことになるのだろうか。(2013.06.10)

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