【白水社】
『盆栽/木々の私生活』

アレハンドロ・サンブラ著/松本健二訳 



 盆栽の世話をすることはものを書くことに似ている、とフリオは考える。ものを書くことは盆栽の世話をすることに似ている、とフリオは考える。

(『盆栽』より)

 今回紹介する本書『盆栽/木々の私生活』には、チリの作家アレハンドロ・サンブラの二作品である「盆栽」と「木々の私生活」が収められているが、「盆栽」という、きわめて日本的な要素が、チリ出身の作家であり、執筆時も首都サンティアゴで暮らしていた著者の小説のタイトルとなっているという点に、国や人種といった境界を超えた物語としての可能性を感じさせるものがある。

 じっさいに本書を読み進めていくと、読者はその構成や筆致に少なからず困惑させられることになる。たとえば『盆栽』では、フリオという男性とエミリアという女性が登場する。本来であれば、このふたりの関係性――彼らがどのようにして出会い、どのような関係を築き、その結果お互いがどのように影響しあってきたのか、といった出来事が書かれていくはずなのだが、本書のなかでわかっているのは、彼らが学生時代に恋人同士だったこと、現在はそうでないこと、そしてエミリアは死んでおり、フリオは生きているという事実だけである。そして、そうした事実はまず物語の冒頭で宣言されており、物語全体を眺めてみても、その基本的な骨子を逸脱することはない。

 物語のなかで、エミリアは死んだ人間である。彼女は三十歳と少しを生きたあとに自殺した。フリオとの関係はそのずっと前に終わっていたのだが、彼がその死を知ったのは、彼女の死から一年以上も経ってからであり、人づてに聞き及んだその自殺は、肝心の「なぜ」の部分が決定的に抜け落ちている。そして同時に、その「なぜ」を解き明かすことは永遠にできないということを、フリオはどこかでわかっているふうでもある。もっとも、本書のなかにそうした登場人物の心情が語られることはほとんどない。ただそうした事実があったということだけが淡々と書かれていく。

 ある意味で非常に淡白な作品であり、それゆえに人の生死についてもある種の透徹した視線を感じさせるものがあるのだが、おそらく著者のなかには、物語の骨子にある要素――ふたりが恋人同士だったという事実と、エミリアの死と、フリオの生という要素について、極力自身の心情や物語としての筋書きといった個人的なものを上乗せすることなく、小説を書き綴るという意図があったと思われる。そしてその方法として、ふたりの関係者を章ごとに登場させ、物語を派生させていくというやり方をとった。物語の骨子となる部分から逸脱することこそないが、エミリアとフリオの物語からは微妙にズレた位置にあり、それゆえに物語全体をどのようにとらえるべきなのかがわからなくなる本書の物語構造は、まるで物語を「書く」というよりは、物語を「育てる」という言い方がふさわしい。

 そう、それはまるで盆栽を育てるように、物語を書くことである。盆栽として植えるものは基本的に植物であり、それがどのような形に育っていくのか、その詳細を思いのままにできるわけではない。だが、鉢を用意し、剪定し、肥料や水をやるといった行為によって、その根幹の部分は定まっていく。「訳者あとがき」でも指摘されていることであるが、まるで植物が枝葉を広げていくように、ふたりにつながる人たちの物語を交わらせていくことで、思いがけない物語の形が出来上がっていくこと、それが著者にとっての物語であり、小説だと言うことができる。

 もうひとつの作品である『木々の私生活』も、似たような構造をもっている。ここでの骨子は、フリアンという男性が離婚歴のあるベロニカと結婚し、娘のダニエラと暮らしているという事実だ。ダニエラはフリアンの実の娘ではなく、ベロニカの連れ子である。そして、ここから物語の枝葉が植物のごとく広がっていくという展開は『盆栽』と同様であるのだが、ここでの大きな特長として、その枝葉の要素に時間が絡んでいる点がある。

 ベロニカが絵画教室から戻っていないので、また新しい一日が始まるのかも定かではない。彼女が戻るとき、この小説は終わる。だが、戻らないあいだはこの本は続く。彼女が戻るか、あるいは彼女がもう戻らないとフリアンが確信するまでこの本は続く。

(『木々の私生活』より)

 上述の引用にあるように、本書における時間の流れは、じつははっきりしているようでいて定かになっていない。ベロニカが戻るまで、物語は続く――こうしたある種のメタ的視点も、本書の特長のひとつではあるが、ここでいうベロニカが戻るまでの時間というのは、たぶんに象徴的なものとなっている。いつもどおりの日常であれば、そのうち彼女は戻ってくる。だが、もし何か想定外のことが起こっているなら、その時間は延長されていくことになる。そしてもし彼女がなんらかの事情で命を落としていたり、あるいは二度とアパートに戻らないと決意していたとすれば、小説としての時間は永遠に引き延ばされることになる。そしていつベロニカが戻るのかは、フリアンには知りようがない。

 知りようがないのだが、場合によってはフリアンはその予兆くらいは感じとっているのかもしれない。だが、そうした心情が書かれることはやはりない。その代わりに彼が行なうのは、自分がベロニカと知り合ったときのことや、当時その関係が破綻しかけていた婚約者との過去を、いろいろと思い出すことである。そしてその想像は、次第に戻ってこないベロニカに起こったかもしれない妄想や、さらには成長したダニエラの物語――すなわち未来のことへと広がっていく。

 もともとの時間は、ベロニカが戻ってくるまでの、ごく短い時間でしかない。だが、そこにフリアンの想像が入り込むことで、その時間が過去と未来へとえんえんと引き延ばされていく。ここでも想起されるのは、植物の生長だ。ある確固とした意図をもって作り出す物語ではなく、枝葉を伸ばすように育っていく物語――それは、多分に実験的でありながら、物語という観点では非常に魅力的な要素である。

 『盆栽』のエミリアにしろ、『木々の私生活』のベロニカにしろ、じつは物語の「現在」においては不在の人物だったりする。だが同時に、本書の物語構成が時系列という枠組みから逸脱し、下に根を張り、あるいは上へ枝を伸ばすように広がっていくものであるがゆえに、私たちは不在であるはずの彼女たちの存在を生き生きと感じ取ることができる。それはまるで、死という絶対的な離別すら超越した、人と人との関係性を構築しているかのようですらある。はたしてあなたは、本書という物語の形に、どのような世界を垣間見ることになるのだろうか。(2015.04.03)

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