【新潮社】
『風の盆恋歌』

高橋治著 



「ハレ」と「ケ」という言葉がある。柳田國男によって提唱された、日本独自の時間に関する考え方で、「ハレ」を冠婚葬祭などの非日常、「ケ」を農作業などのふだんの生活、つまり日常とし、それらが繰り返されていくという円環的な世界観が、その背景にはあるとされる。そういう意味で、今も日本全国で行なわれているさまざまな祭は、人々にとっての非日常であり、「ケ」を乗り越えるための生のエネルギーをたくわえるという意味合いを、本来はもっているものでもある。

 私の生まれ育った町にも、年に一度の祭はあったし、それは今もつづいている。ただ、東京の大学に通うために故郷を離れてしまってからは、そうした祭に参加するということがなくなって久しくなっている。時期的な問題というのもあるのだが、それ以上に祭というものが、その町で生活している人々のものだという意識が強いからでもある。私にとっての故郷とは、すでに「生活の場」ではなく「遠く離れて想うもの」になったということだ。そしてそれは、「ハレ」と「ケ」という円環から切り離され、心を開放させる非日常と接する機会を失ったことを意味してもいる。

「ハレ」の場を失った人たちは、長くつづく日常を乗り越えるための力を、どのような形で補っていくのだろう。本書『風の盆恋歌』は、そこで起こったことの表面のみをとらえるのであれば、ふたりの中年男女の不倫を描いた作品だと言うことができるのだが、その「不倫」という、世間ではしばしばマイナスイメージをともなって語られる行為を「ハレ」の変形としてとらえなおすことで、ひとつの純粋な恋愛物語として昇華させることに成功している。そして、読者の思いをそのように誘導していく原動力として、「風の盆」という行事がうまく機能している。そういう意味では、たとえば渡辺淳一の『失楽園』『愛の流刑地』とは、その性質を異にしている。

 本書は不倫小説だと書いた。大手新聞社の外報部長である都築克亮と、国立病院の外科医の妻である中出えり子――お互いに惹かれあうものがありながら、それぞれの性格が災いして結びつくことにならなかったふたりが、その二十年の歳月を埋めるために逢瀬を重ねるというストーリーが本書の骨子であるが、彼らが会うのは遠い北陸にある八尾町、それも年に一度、「風の盆」の祭がおこなわれる三日間にかぎるというもので、物語の視点としては、重ねられる逢瀬の内容よりは、むしろその限定された逢瀬を思いつづけるという部分に焦点をあてるような展開となっている。そう、ふたりはけっして頻繁に会うようなことはなく、また携帯電話のあるような時代の物語でない、という点もまた、その「忍ぶ恋」という要素を強くしていると言える。

 この「忍ぶ恋」、忍耐をともなうひそやかな恋心という要素は、以前紹介した同著者の『別れてのちの恋歌』のなかでも大きな位置をしめるものであった。それは、いかにもひと昔前の価値観を思わせるものであり、ともすると古くさいもの、今の時代にはそぐわないものととられがちではあるが、そんなふたりの「忍ぶ恋」が、「風の盆」という祭のもつ「ハレ」と結びつき、特別な恋として燃えあがっていくという展開は非常に巧みであり、また美しさをともなうものであることは間違いない。

 そもそも、この祭という場の非日常としての要素は、本書の冒頭部分から強調されていたものでもある。この本書冒頭にある「序の章」は、じつは恋愛対象のふたりの視点ではなく、そのふたりの逢瀬の場である別荘を管理する、太田とめという老女が主体となっているのだが、雪深い町には不可欠の「雪流し水」が年中流れていく、坂の多い八尾町は、常に水音の絶えない町でもある。物語の最初、八尾の町を歩いているとめは、そのなじみ深い水音が聞こえないと感じ、後にその原因が、これからはじまる祭の準備で、町がさまざまな物音に包まれているからだと気づくことになるのだが、こうしたさりげない描写のなかに、すでに物語が日常から非日常へと移行していくことを盛り込んでいるのだ。そして、それはもちろん、これからはじまるであろうふたりの中年男女の日常が、この八尾町で非日常へと移行することの暗示でもある。

 恋愛小説というものは、シチュエーション的には数多くのバリエーションがあるものの、その内容を要約してしまうと、ことのほか単純な出来事を扱っているものだ。奇しくも「男と女だよ やることは知れてる」という祭の歌のとおり、ということでもあるのだが、ここでもうひとつ、本書における恋愛と祭の関係で注目すべきところは、「風の盆」という祭の表と裏の部分である。この祭は八尾町の祭であると同時に、それなりに名の知られた祭でもあるらしく、毎年のように見物客が集まるものとなっている。「表と裏」と書いたのは、言ってしまえば観光客用に披露する表の部分と、観光客向けではない、純粋にその土地に住む人々のための祭という裏の部分のことだ。そして町の人たちが真の意味で開放され、自由に踊ることができるのは、「裏」の祭だけである。こうした表と裏の対比は、そのまま都築とえり子という男女がかかえざるをえなかった表と裏にも呼応する。あくまでひとつの家庭をもつ者としての「表」と、本当に好きだと思う人への、けっして公にはできない「裏」――そんなふうに考えると、太田とめや清原といった八尾町の住人が、ふたりの不倫関係についてなかば黙認という形で見逃すばかりか、ともすると好意的でさえあったのは、どちらもその「裏」の部分、祭の本来もつ「ハレ」の要素、非日常としてすべてのしがらみから開放されるという要素において、共有できるものがあるからだということが見えてくる。

 まるで幻想の世界であるかのような祭の描写や、北陸の夏の自然の表現などに、男女の恋愛感情を絡ませた情感的な筆致が冴えわたる本書は、あるいは中年どうしの不倫をいかに美しく描くか、という点に情熱を注いでいるようなところさえ見受けられるのだが、祭があくまで非日常であり、いずれ人々が日常のなかに戻っていくように、本書のなかの恋愛もまた、どこかで終わりを迎えることになる。ましてや「ハレ」と「ケ」の概念は、円環的な時間である。ほんの一時期だけ出会い、またおのおのの日常へと戻っていくという繰り返し――その円環を断ち切る必要が生じたとき、はたしてふたりがどんな行動をとることになるのか。その美しくも儚い本書の恋愛の形は、はたして不倫という一言で片づけられるのかどうか、ぜひとも判断してもらいたい。(2008.02.18)

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