【筑摩書房】
『Bolero』
世界でいちばん幸せな屋上

吉田音著 



 テレビのニュースや新聞などを見ていると、世の中にはろくなことを考えない奴らがいかに多いかをあらためて思い知ることになるのだが、そんな彼らがさまざまな犯罪に手を染めた理由が、たとえそれがどれだけ歪んだものであったとしても、けっきょくはこの世における自身の幸福や安寧を願ってのことであったとしたら、人が何かを考えるという行為の罪深さ、その業の深さを思わずにはいられない。

「人間は考える葦である」と言ったのは、フランスの物理学者パスカルだが、なぜ人は何かを考えずにはいられないのだろうか。私たちは小さい頃から「将来を考えろ」とか「もっと先を見据えて考えろ」とか言われてきたが、未来がどう変わっていくかなど、けっして誰にもわかりはしない。誰にもわからないことを考えたところで何の意味もない、余計なことなど考えたくもない――おそらく、世の中は昔と比べてはるかに便利で豊かになったのだろう、とくに何かを考えていなくても世界はとりあえず動いていくし、人はとりあえず生きていくことができるような気がする。事実、そのとおりなのだろう。だが、考えてもわからないことを考えるというのは、本当に無駄なことなのだろうか。

 ちょっとくらい無謀でもいいから、単純に夢だの希望だのを持てばいいんじゃないかしら。――(中略)――叶う、叶わないじゃなくて、持ち続けることが重要なの。持ち続けると、不思議なことに、あんなに得体の知れないものだった未来が、じつは自分の体の中にあるもんだって気付くのよ。

 本書『Bolero 世界でいちばん幸せな屋上』は、前作『Think 夜に猫が身をひそめるところ』の続編にあたる作品で、けっして謎を解決しない「ミルリトン探偵局」の著者と円田さんが、あいかわらず黒猫シンクの行動についてああでもない、こうでもないと考えをめぐらせていく「SIDE-A」と、その黒猫シンクを媒介にして「SIDE-A」の世界とつながっていくもうひとつの世界の物語をつづった「SIDE-B」の二部構成となっている点は、前作同様である。ただ、前作とくらべてあきらかに変わってきた点があるとすれば、「SIDE-A」と「SIDE-B」のふたつの世界の住人が、「考えること」というひとつのテーマをより明確に意識するようになったこと、そしてそのことによって、ふたつの世界そのものがさまざまな形でリンクするようになったことである。

 これまでは、あくまで黒猫シンクがくわえてくるさまざまな物があって、はじめてその意味するところを考えるというのが「ミルリトン探偵局」の基本姿勢であったが、本書に関していえば、黒猫シンクが冒頭から不在であったり、また姿を見せたと思ったら、今度はこちらにあった物をくわえてどこかへ行ってしまう、という行動の変化を見せるようになる。「案外さ、シンクの行く先々で、われわれみたいな素人探偵が首をひねってるのかもしれないよ」などとうそぶいている円田さんだが、彼自身はふだんからどうでもいいようなことを考えているうえに、今回はさらに「非現実的な」小説を書こうと頭をひねっているし、いっぽう著者の音にしても、高校受験をひかえた中学三年生となり、自身の将来について考えざるを得ない時期を迎えている。

「考えること」というテーマ自体は、前作から一貫したものである。そもそもシンクという名前からして「考える」という英語から来ているものであるし、その考える猫が「猫だけが行ける場所」をくぐってたどりつくもうひとつの世界を生きる人たちへ、さらなる「考えること」を橋渡しするというイメージのつながりが、本シリーズの底に流れているのは読者も感じとることができるだろう。ただ、前作では「考えること」と、たとえば「想像すること」「空想すること」との線引きが曖昧だったのに対し、本書では徐々にそのあたりの違いが明確になっていくのがわかってくる。

 夢は空を飛ぶように自由に楽しむものだが、幸福は、飛ぶことをやめ、地に足のついた現実の中で感じ取らなければ価値がないものだと、鳥は知ったのだ。
 鳥にとって飛ぶことは易しい。問題はどうやって飛ばずにいられるか、なのだ。
 それを「考える」べきだと、鳥は屋上で学んだのだろう。

 本書の登場人物たちは、どちらの側の世界の住人も、必ず何かを考えている。バナナの房のなかで一番うまいのはどれか、とある商品を売るためにどのような付加価値をつければいいのか、よりよい演奏をするためにはどうすればいいのか――考えていることは人のよってそれぞれであるが、どんなことを考えるにしろ、そのためにはしっかりと今ある現実を捉えなければならない、というのが前提にある。現実のバナナを何も知らない人が、どの一本がうまいのかを考えても何の意味もないのだ。そしてそれは、「バナナ」を「幸福」と置きかえても同じことである。

 こうした「考えること」のイメージが、まるで連鎖反応のようにお互いの世界を干渉しあい、さまざまな符丁を生み出し、その符丁によってそこに生きる人たちがさらに考えをめぐらせる――本書が見事なのは、何もそれぞれが独立しているように思われる物語が、ただたんにさまざまな伏線によってつながっているというだけでなく、「考えること」の連鎖によって、ふたつの世界のどちらが現実でどちらが虚構なのか、という線引きそのものを払拭してしまうところなのだ。前作からの流れで言うならば、「猫には猫だけが行ける場所」として人間には触れることのできない想像だけの場所が、たしかな現実として立ち現われてくる、ということである。

 夢と幸福、そのふたつをともに手に入れることができるなら、と思わずにはいられない。だが、夢と幸福は、必ずしも同じものを指しているわけではない。人はたしかにろくでもないことばかり考える生き物であるが、たとえば夢や幸福を手に入れるために、夢とは何か、幸福とは何かを考えずにはいられない生き物でもある。そして、そんなふうに何かを考えることは、けっして無駄なことではない。なぜなら、本書のサブタイトルでもある「世界でいちばん幸せな屋上」――なぜ「屋上」が「世界でいちばん幸せな」場所であるのか、ということについて、こんなにも素晴らしい「考え」に到ることができるのだから。(2005.02.06)

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