【筑摩書房】
『望郷と海』

石原吉郎著 



 人がなにがしかの理不尽な出来事に遭遇するとき、その対象者がとりえる行動はふたつである。ひとつは「告発」、自分が受けた不利益の原因を自分の外に求めることによって、その実質的・精神的痛みを緩和しようとする行為である。そしてもうひとつは「内省」、これはときに、宗教や哲学と結びつくことでもあるが、不利益の原因を、それまで自分が行なってきた行為や選択の結果であると判断し、その因果を受け入れてしまうことで痛みを克服しようとする行為である。

「告発」と「内省」――このふたつの行為のどちらが優れていて、またどちらが劣っているか、という考えはおよそ意味のないことであるが、ひとつだけ確かなのは、どちらの行為を選ぶにしろ、必要になってくるのは言葉という道具である、ということだ。言葉を用いて、自分を理不尽に傷つけていったものの正体をあきらかにし、その姿と真正面から向き合わないかぎり、人は告発することも、内省することもできない。そしてそれができないかぎり、人はいつまで経っても一歩前に踏み出すことができないのである。

 本書『望郷と海』の著者である石原吉郎は詩人である。著者が書いた詩は本書の中にもいくつか載せられているが、それらの詩に関するかぎり、そこにはかつて著者が終戦直後に戦争犯罪人として罪を問われ、八年間にわたってシベリア各地の強制収容所において体験しなければならなかった、およそ非人道的な囚人生活の影響が色濃く残されている。しかるべき冷戦を見据えた、旧ソ連側の「人質確保」を目的とした一方的な軍事裁判――それはまさに、著者にとってはこれ以上はないほどの不条理であった。

 しかし、著者がシベリアから帰還してから始まった詩作活動は、彼に「告発」のための言葉ではなく、「内省」のための言葉を与えたと、ひとまずは言うことができるだろう。

 人間は告発することによって、自分の立場を最終的に救うことはできないというのが私の一貫した考え方です。人間が単独者として真剣に自立するためには告発しないという決意をもたなければならないと私は思っています。

 著者は告発しないという立場をとることで、詩作のための言葉を獲得した、と述べている。言葉を獲得する、ということ、それはとりもなおさず、自分自身を、自分が体験してきたことの意味を、そして自分を戦争犯罪人だと断じた権力そのものを、確実な実体として自分の力で変換するための作業に他ならない。私は詩という文芸についてはけっして明るいわけではないが、そこに綴られる言葉のつながりやリズムは、普段私たちが認識する言葉の定義を崩壊させ、まったく新しいものとして再定義させるものだと心得ている。既定の意味から言葉そのものを逸脱させること――著者がシベリア抑留によって失った言葉を再び獲得するために、詩という表現を選んだのは、とにかくひとりの、あたり前の人間として自己を再定義するための「内省」を求めてのことであった、という意味で、非常に興味深いと言えよう。

 そして本書『望郷と海』がある。ここに収められている散文――それはまさに、著者の長年の「内省」によってようやく語れるようになった、まぎれもない著者自身の言葉である――によって、私たちはようやく、著者が体験しなければならなかったシベリアでの囚人生活を追体験できるようになったわけであるが、そこからまず見えてくるのは、およそ私たちの想像をはるかに絶する非人道的な事実である。

 極度の飢えのなかで、二人分の食料をひとつの食器で共有しなければならない「食缶組」における、絶え間ない隣人への不信と疑惑、少しでも体力の消耗を減らしたいという一心で、囚人どおしで繰り広げられる工具や毛布の奪い合い、ストルイピンカと呼ばれる拘禁車で収容所へ移送される数日間の、飲食はもちろんのこと、排泄すら極度に制限された閉鎖空間は、囚人たちから容赦なく人間としての尊厳や誇りを奪いとり、同じ境遇にいる囚人たちどおしで、さらに弱肉強食の地獄が展開され、弱い者が密告という、およそ意味のない報復手段をとる世界――著者が本書という形で、とりもなおさず再定義した自らの体験からにじみでてくるのは、ただ「生き残る」ために人間であることを捨てなければならなかった異常な空間で、不用意にも生き残ってしまった自分という存在への底知れぬ絶望であり、およそどんな言葉も現実の苛酷さに追いつかないがゆえに、言葉そのもののはたらきが無意味となってしまい、誰ひとりとして信じることのできないという、究極的な孤独のなかで、死滅してしまった人間としての自分をもう一度取り戻したい、という切実な願いである。

 著者が、自分の受けた究極の不利益を処理するために、ついに「告発」ではなく「内省」に向かうことになったのは、何も本書のなかに登場する、最後までペシミストであることを貫いた鹿野武一の存在のせいばかりでない。それはある意味で必然であったのだ。なぜなら、著者が対峙しなければならなかった唯一のものこそが「孤独」であり、自らの内側へ向かう以外のすべての道は絶たれていたのだから。

「新しい人間になりたい」という、著者のあまりにも重い言葉――キリスト教に改宗し、聖書を読み解き、何より「告発」よりも、人間として救われることを願った著者の言葉は、必ずしも平易であるとは言いがたい。そこにはどこか、私たち外部の者の理解を、やんわりと、しかし頑なに拒否しているかのような雰囲気がある。もし、本書を読み進めていくことで、理解することへの無力さを実感することがあるとすれば、それは言葉という名の道具に対する、絶望的なまでの無力感でもあるのだ。そして、本書のことを書評しようと試みているこの文章もまた、著者の救いを求める心の前には無力である。

 あなたははたして、著者が獲得するにいたった言葉を、どこまで受けとめることができるだろうか。(2001.05.14)

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