【光文社】
『僕のなかの壊れていない部分』

白石一文著 



 人はなぜ自我などというものをもってしまったのだろうか、とふと考えることがある。自我というのは、簡単にいえば自分が他の誰でもない、まぎれもない自分自身であると認識する能力のことであり、それは突きつめていけば「いま、ここ」という時空間の認識ということにもつながるものである。そして、他ならぬこの自我の認識が、私たち人間の社会をここまで複雑で高度なものにしてきたこともまたまぎれもない事実であるが、ではその社会はいったい、どのような形を目指してここまで発展してきたのだろうか、ということを考えたときに、その先にあるはずのものが明瞭に見えてこない、という事実に慄然とせざるを得なくなる。

 自我を意識した瞬間、人は他ならぬ自身の命が限りあるものであり、この世界に生まれた以上、いつかは必ず死を迎えなければならないという確たる事実を突きつけられることになる。もし人間という種に自我がなければ、あるいはもっと容易に自身の存在が何か大きなものの一部であるという事実を受け入れることができるかもしれないのに、そうした共感を失って、なお自分という個を認識する能力をあたえられた人間は、どうなることを望まれているというのだろうか。あるいは、個々の人間として求めていることなど何もないのかもしれないが、そうであれば、あくまで自身の自我を背負い、自我を通してしか世界を認識することのできない私たち人間の個としての生きる意味や価値の、その耐えられないほどの軽さについて、どのように考え、あるいは折り合いをつけていけばいいというのだろうか。

 ――家庭を持ち、ずっと一緒に暮らしていきながら、僕たちは一体どこへ向かって行くんだい、きみはその行く先がおぼろげにでも見えているのかい。もし見えているのなら面倒臭がらずにどうか教えてほしい。実は僕にはよく見えないんだ。だから不安なんだ。恐ろしく不安なんだ。

 本書『僕のなかの壊れていない部分』に登場する松原直人は、某大手出版社の週刊誌編集部に所属している若手サラリーマンであり、その仕事関係で知り合った深澤枝里子と付き合っている。直人の一人称によって語られる本書冒頭では、枝里子を京都旅行に誘い出す場面があるが、それは彼女の以前の恋人が京都に住んでいることを知った直人が、そうした昔のことを本人の口から聞き出せなかったことへの、ちょっとした意趣返しのようなところがあり、そういうところだけに目を向けると、直人もまたそれなりに枝里子に執着しているように見える。それは、ふたりが恋人どうしであるととらえるならばごく当然の執着であるのだが、そのいっぽうで、旅行から戻ってきた直人は、しばらくは枝里子と会わないほうがいいとあっさり判断し、携帯電話の呼び出しにも応じなくなる。それどころか、本書を読み進めていくと、彼が関係をもっているのは枝里子だけというわけではなく、じつはよく呑みに行く居酒屋の女将さんや、一流企業のオーナー夫人といった複数の女性としばしば情事を重ねていることがわかってくる。

 どれだけ強く願っても叶えられるわけではない、大手出版社の、しかも編集部に属し、誰もがうらやむような高給取り、そして誰もがふり返らざるを得ないほどの美人との付き合いがあり、その一方でパトロンになってくれる女性にも可愛がられる――仕事も金も女も、ほとんど何ひとつ不自由することのない男が主人公である、という点については、同著者の『一瞬の光』も同様であるが、本書の直人の場合、間違いなくこの世界においてはいわゆる「勝ち組」に属しているにもかかわらず、そうした事実についてとくに優越感とか、人生における充実感とかいったものをまるっきり感じていない、それどころか、本書を読んでいけばいくほど、この松原直人という人物が、およそこの世のあらゆる事柄に対して、とくにささやかな関心さえ抱いていないような印象を強く受けることになる。

 これまで読んできた本の内容をすらすらと暗誦してみせ、のみならず他の人には到底およばないような知識と、それにともなう深い思索を得ていると思われる直人――にもかかわらず、この世界で生きるということ自体に心底うんざりしているようにさえ見えるこの語り手の態度が、いったいどういった要因によるものなのか、という点は、おそらく本書を読んだ方であれば誰もが疑問に思うことであるが、私も含めた、この世界に生きるあらゆる人たちが、じつは多かれ少なかれこの完璧でもない、平等でもない、そして必ずしも誰もが幸せになれるわけでもなく、それどころか苦しいことや悲しいことのほうがはるかに多いようにさえ思えるこの世界の存在にうんざりしていると言える。ただ、私たちの大半は肉体の生存欲求に従って、今を生きていくことに精一杯であり、それ以外の余計なことをあまり深く考えないようにしているだけのことでしかない。松原直人という人物が、とりあえず金と女について悩む心配のない立場にいるという設定は、こうした問題についてより直接的なかかわりをもたせるためのものであることは間違いないが、より重要なのは、彼が世界以上に、他ならぬ自分自身の存在について何ら価値を見出すことができずにいるという事実である。

 居酒屋の女将である朋美の幼い息子のためにプレゼントを用意したりお花見をしたり、かつての自分のように家庭のなかに居場所のない鈴木ほのかや木村雷太といった年下の者に、自由に自分の住むアパートを使わせたり、大西夫人の淫らな欲望を満たす手助けをしたり――彼の語る彼自身の生活の様子は、まるで自分のためというよりも、むしろ自分以外の人の都合を優先しているかのようなところがしばしば見受けられる。だが、それが利他主義といった高潔な理想に殉じているからというよりも、ただ単にこの世界に生きる自分というものを重要視していないところがあるからだ、と言ったほうが近いものがある。人はいずれ死ぬ、という厳然たる事実――その事実を前にして、なおその事実に目を向けずに生きつづけることができず、自分は本当に死にたくないのだろうかと考えずにはいられない直人の、聡明であるがゆえの不幸がそこにはある。

 僕たちは、その死の先にあるものを、たとえ不可能であっても必死に思考せねばならない。この作者の言うように死が「乗り切る」ものだとするならば、僕たちは是が非でも、その乗り切った先にあるものの正体を掴まなければならないのだ、と。

 本書のなかで、直人と、それ以外の登場人物との関係は変化をつづけていく。だが、そのなかで直人だけが、自分の本当の居場所をこの世界に求めていない。だが、そうした意思とは無関係に、直人もまた生きている以上、このくそったれな世界で生きざるを得ないし、他の人たちのようにそのことに無頓着でいつづけることも選べない。このどう考えても幸せになれそうもない本書の設定は、しかしそうであるがゆえに、本書を読む読者にもまた、本当の幸せとは、生きることとは、死ぬこととは何なのか、という命題をあらためて突きつけてくることになる。

 生きるということは、同時に死にゆくということであり、この世に誕生した瞬間、死へのカウントダウンは無慈悲なまでに始まってしまう。だが、世の中はしきりにこの世での生の謳歌、生きることの価値を説いてまわってはいるが、死ぬことについてあまり多くを語ろうとしない。それがある種の欺瞞であるとするなら、本書はまぎれもなく、そうした欺瞞を問いただし、生と死という人間だからこその認識の本質について、真摯に向き合おうとしている作品だと言うことができる。(2006.09.04)

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