【新潮社】
『墨攻』

酒見賢一著 



 私がまだ子どもだった頃、おそらく当時テレビ放送されたカンフー映画の影響だろうと思うのだが、なぜか少林寺拳法にハマっていたのを覚えている。ハマるといっても、私が当時住んでいたのはひなびた田舎の温泉街であり、少林寺拳法を教えてくれる道場など望むべくもなく、仕方なしになけなしの小遣いで拳法の入門書のたぐいを何冊か購入し、それを読むことで何の脈絡もなく自分も拳法の使い手になったような気になった程度のものであるのだが、今になってよくよく考えてみると、少林寺拳法というのは、その名称からもわかるように、もともとは「少林寺」というお寺で生み出された武術であり、その使い手が寺の僧侶であるというのは、何とも形容しがたい違和感を覚えるものでもある。

 私は仏教にかんしてけっして明るくはないのだが、仏門に入って修行をしたり、人々の仏の教えを説いたりすることを本業としているはずの僧侶たちが、なぜ独自の流派を名乗るほどの武術体系を確立していくに到ったのか――むろん、過去に日本においても僧侶たちが武器をとって戦ったという歴史がないわけではないし、また『三国志演義』や『水滸伝』の舞台である中国の性質的なもの、あるいは中国仏教における修練としての側面もあるのかもしれないが、それでもなお、武術というのが何かと戦うための技術であり、そうである以上、少林寺の僧侶たちには、自身の肉体を鍛え、武術を身につけなければならなかったそれ相応の理由があったはずだと思うのは、はたして私だけだろうか。

 圧倒的な兵力を誇る敵の軍勢を相手に、知略と信念を武器にほんのわずかな手勢で迎え撃ち、劣勢をひっくり返す活躍をするという展開は、その手段があまりに現実離れしているようなものでなければ、まさに読み手に胸のすくような興奮をもたらすものである。中国の春秋戦国時代を舞台とする本書『墨攻』は、小国の梁を守るためにたったひとり遣わされた革離という男が、迫り来る趙の軍勢二万を相手にどのような戦い方を見せるのか、という点こそが醍醐味であることは言うまでもないのだが、本書を読み終えた私がまず思ったのが少林寺拳法のことであり、僧侶でありながら武術を極めるという行為に感じた矛盾だったというのには、それなりの理由がある。それは、本書の主人公ともいうべき革離が属していた墨子教団がもつ不可思議な部分に拠るところが大きいのだ。

 しかし、墨子は自ら侵略することは絶対にしなかった。ただ、守る、のである。墨子教団の精兵と優秀な兵器が用いられるのは城邑防衛戦に限られていた。墨子やその弟子たちが編み出した戦術もすべて、守ること、のみを趣旨としたものであった。

 中国の戦国時代において、孔子をはじめとして、諸国を放浪して王公諸侯に人としての道を説く思想集団がいた、という話は有名であるが、そのなかにあって墨子教団の異質さを際立たせている最たるものが、徹底した博愛主義、非戦論を説いていながら、同時に精強無比の戦闘集団であり、また兵器開発の技術にかんしても抜きん出るものがあった、という矛盾であり、また彼らはこと敵に攻められようとしている城を守るということについて、いっさいの褒賞を求めることなくその力を惜しみなく与えることまでしていたという点である。

 同じように圧倒的な劣勢に立たされながらも、それでもなお守るべきもののために戦う者たちの姿を書いたものとして、たとえば高橋克彦の『火怨』があるが、アテルイたちの戦いには、自分たちの生まれ育った土地である蝦夷を守るという確固とした理由があったのに対し、本書の場合、革離が負っているのは墨子教団としての信念ただひとつのみであり、見方によっては傭兵のようにその身を戦場に置くことを厭わない。そうしたある種徹底した自己犠牲の精神は、当時の人たちばかりでなく、今を生きる私たち読者にとっても、なかなか理解しがたいものがある。

 守るために戦うこと――こちらからはけっして攻めることなく、だが攻めてくる敵に対して絶対に負けない戦いをつづけるというその心意気は、非常に気高く美しい。だが、本書において革離が梁の臣民に対して求めた徹底した規律、人々の心を統御するための信賞必罰の厳格さは、敵から城を守るというただ一点のみに向けられており、守りきったあとに何が残り、人々にどのような変化が生じていくのかについて、おそらく彼は何も考えてはいない。言ってみれば、本書のなかで革離は城を守るためのマシーンとしてのみ機能しているキャラクターであり、そのために自分以外の者たちにもそのことを求めてやまない。そしてそこにあるのは、そうすることで城は守れるという確固たる信念だけだ。

 そういう意味で、君主の息子である梁適の危惧は至極まっとうなものだとも言える。革離がもっているもの、そして彼が属する墨子教団がもっているものは、純粋な力だ。そして純粋な力は、使い道を誤れば身を滅ぼす火種にもなりかねないものである。そこまで考えたときに、こうした革離のあくまでシステマティックな描かれ方が、大きな力をもつがゆえのおのれに対する厳格さ――あるいはプライドから来るものであるという見方がはじめて生まれてくる。だが、それは人として生きるという側面から見たときに、そして隣人を愛するという墨子本来の博愛主義と照らし合わせたときに、どのような評価を受けるだろうか。

 本書のなかでも断っているように、墨子という思想集団のことについて、わかっていることはあまり多くない。ここからはあくまで私の推測でしかないのだが、著者は墨子という不可思議な集団について、あくまで不可思議な存在のまま、あたかも史実を述べるように物語を進めることで、その異能性を表現しようという意図をもっていたのではないだろうか。あたかも、拳法と僧侶というミスマッチなイメージが、私たちの理解になかなかつながっていかないのと同じように。

 中国の城を攻めるための多彩な手段や、そのための兵器、そしてそうした攻略に対する対処方法といった部分が面白い本書であるが、この物語の本質は、むしろそうした技術をもちいる思想集団、しいては教団の意図に逆らってまで梁の守りを果たそうと決意し、またじっさいにそのために誰よりも働いた革離という人物の、常人には理解しがたいその心のうちにこそあると言える。人が人としてもちえる強さと弱さ――そして、その人々の意思を飲み込んで流れている歴史のダイナミズムの一端を、本書は垣間見させてくれる作品である。(2007.06.01)

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