【新潮社】
『僕僕先生』

仁木英之著 
第18回日本ファンタジーノベル大賞受賞作 



 先生と生徒、あるいは師匠と弟子という間柄は、ある意味で人間社会の縮図であると言える。その関係を成立させる第一の要素は、教えを授ける者と教えを請う者、という関係であるのだが、自分の得た知識や技といったものを誰かに伝えるという欲求がなければ、あるいは自分の知らない知識や技術を手に入れたいという欲求がなければ、そもそもこの関係は成立しえない。純粋な好奇心や腹黒い欲望、未来に対する不安や誰かに対する怒り、あるいは誰かの役に立ちたいという思い――人間が人間であるために逃れられないさまざまな欲求や強い感情が、師弟関係の根幹を支えている。そして幼い人間が誰かの教えを請うのも、また老成した人間が誰かに自分の得たものを伝授したいと望むのも、人間がこの世界において有限の存在であるからに他ならない。

 限られた生を懸命に生き、またその証を自分以外の誰かに託すことで、さらに未来の時間にまで手を伸ばそうとする人間の性を、浅ましいととるか、あるいはそれこそが人としての力の強さであると納得するかは個々の判断にゆだねるが、そんなふうに師弟関係というものを位置づけたとき、本書『僕僕先生』における仙人僕僕と、その弟子ということになっている王弁とのあいだには、いったいどのような力学がはたらいているのだろうかと思わずにはいられなくなってくる。

「名乗っておかねばなるまい。姓は僕、名も僕、字はそうだな、野人とでもしておくか」
「僕僕?」
(中略)
「ボクにとって名前など何の意味もない。目の前にいるキミがボクのことを認識するのに何か特別な名前が必要か?」

 本書の舞台となるのは古の中国、唐の時代、後に楊貴妃への愛に溺れてしまったことで有名な玄宗皇帝の治世のもと、王朝としては絶頂期を迎えていた頃のこと。光州に住む王弁は二十歳をすぎた青年でありながら、勉学に励むこともなく、かといって仕事に精を出すわけでもなく、もと役人だった父親の財産にあぐらをかいて日がな一日を無為に過ごしている道楽息子。そんな息子のぐうたらぶりにほとほと困り果てていた父親の王滔は、ふと思い立って王弁を黄土山に最近住み着いたという仙人のもとに向かわせることにする。晩年になって道術に目覚め、不老不死やら仙術やらに凝りだした父親とは異なり、仙人の存在などはなから本気にしていなかった王弁だったが、おもむいた黄土山の庵にいたのは、まだ十代半ばにしか見えない少女がひとりだけ。

 およそ白髪と長い髭の老人という「仙人」のイメージからかけ離れた、可愛らしい女の子がじつは当の仙人その人だったという、まるでどこかのファンタジーライトノベルの設定を思わせるような展開を見せる本書のなかで、その少女仙人から素質はまったくないものの、仙人たちとの強い縁を宿命づけられた「仙縁」を見いだされた王弁は、なし崩し的に彼女の弟子のような立場に立たされてしまう。たしかに自在に自分の姿を変化させたり、五色の雲に乗って空を駆けたりといった、すごい力をもつ仙人でありながら、どこか俗っぽい言動で王弁をからかったりする僕僕と、人間でありながら現世での欲に関してとことん無頓着で、一生楽して暮らしていけるのであればそれ以上とくに望むことのない王弁――およそ仙人らしくない仙人と、人間らしくない人間という意味で、このふたりは似たもの同士だと言える部分もあるのだが、本書のもっとも注目すべきところは、そんな「らしくない」ふたりが、ともあれ師匠と弟子というはなはだ人間臭い関係で結ばれてしまうという点にある。

 ふたりとも「らしくない」のだから、その関係も当然のことながら「師匠と弟子」という言葉が持つイメージからかけ離れたものとなる。もともと出世や必要以上の金儲けといった事柄に力を注ぐことを無駄だと考えている王弁は、弟子として何かの修行をしたりするわけではなく、僕僕の行くところにただついていくというだけであるし、僕僕のほうも強いて王弁に何かを教えたり、修行をするように強制することもない。そのうえ、見た目は女の子である僕僕の姿に、一応男である王弁がついムラムラとした気持ちになったり、僕僕のほうもそんな王弁に変な誘惑をかけたりする。そんなどこかほのぼのとした雰囲気は、たとえば同じく唐を舞台としたファンタジーであるバリー・ヒューガートの『鳥姫伝』にも似たようなところがあるのだが、『鳥姫伝』の李高と十牛との関係がどちらかといえば知恵と力という役割分担が明確だったのに対し、僕僕と王弁の場合、基本的にひとりでも充分な力をもつ僕僕に対して、王弁が物語の展開上、何かの役に立てるということはほとんどない。

 師匠と弟子としての厳格な関係というわけでもなく、足りない部分を補い合って困難に立ち向かう仲間という関係でもない、にもかかわらず僕僕が他ならぬ王弁という人間に執着しつづける理由がどこにあるのか、ということを考えたとき、仙人でありながら俗っぽいという僕僕に与えられた性質がはじめて生きてくることになる。あらゆる意味で人智をかけ離れた存在である僕僕――おそらく、彼女は「仙人」というフィルターを通さない、素のままの自分を見てほしいという思いがあるのだろう。そして物事に対して強いこだわりをもたない王弁は、その困難な思いを自然に体現できるほぼ唯一の人間なのだ。

 仙人であることを隠せばいい、という考えもあるだろう。だが、それは本当の意味での自分ではない。仙人であることを知って、なお他の人間と同じような態度で接することができる、という点こそが、王弁の最大の魅力である。そして、だからこそ本書におけるふたりの関係は絶妙なものとして、読者の心をほのぼのとさせ、同時にどこか寂しさを感じさせる。

「仙人というのは実にかわいそうな生き物でね。口では人間のことを愚かだなんだと蔑んだり憐れんだりしているくせに、その実人間が大好きなんだな。だからボクのように下界にとどまってしまう者も出てくる。この世界から縁を切りたくて仙人になったはずなのにね」

 仙人としての力をもちながら、心の底から立派な仙人になりきれない僕僕と、仙人との縁がこのうえなく強いにもかかわらず、仙人になるための素質に決定的に欠ける人間王弁――だが、このどちらかがもし立派であったり、あるいは普通であったりしたならば、本書のような絶妙な関係はきっと結べなかったに違いない。どこか中途半端でアンバランスな、しかしだからこそこのうえなく面白いふたりの関係がどこに行き着くことになるのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2007.05.15)

ホームへ