【新潮社】
『ぼくは勉強ができない』

山田詠美著 



 ことわざのひとつに「隣の芝は青い」というものがある。他人のものは何でもよく見えて、うらやましいと思ってしまう人間の心理を言い表していることわざであるが、それはあくまで隣に住む家の芝の青さが気になってしまう、という当人の意識が前提となっていることは、言わずもがなのことである。芝の青さにたいした価値を見出していない人間は、そのことをうらやましく思うことはないし、そもそも隣の家に芝が生えているという事実すら意識しないものだ。

 こんなふうに考えてみると、他人の価値観にふりまわされたり、自分と他人を比べて自分勝手な優位や劣位を抱いたりすることは、いかにもくだらないことのように見えてくる。そしてそれは、じっさいにくだらないことなのだ。だが問題なのは、ことわざで言う「芝の青さ」が、ときに現代の人間社会の常識や倫理観といった、実体もないのに妙に強固な価値観と結びついている場合があるということであり、その価値観の扱いかたが、自分が生きる社会の住み心地を大きく左右する可能性がある、ということでもある。

 たとえば、「芝の青さ」を「ロールスロイス」に置きかえてみる。隣の家に住む人は、しょっちゅう高級なロールスロイスを乗り回している。つまり金持ちであり、優雅な暮らしをしているのだ。個人がどれだけの財産をもっているか、というのは、資本主義の原則で動いている今の社会においては大きな判断材料のひとつだ。この価値観を容易にふりはらえる人間は、残念ながらそう多くはない。隣人の生活はよく見え、そしてその暮らしぶりがうらやましく思えてしまう。そしてその結果として、「あんな馬鹿でかい外車を乗り回すなんてけしからん」「排気音がうるさい」「金の無駄遣いもいいところだ」などといった文句が出る。ロールスロイスの持ち主にしてみれば、「お前らの価値観を押しつけるな」といった気分だろう。なぜなら、人がどんな車に乗ろうと、それは個人の自由であるからだ。

 本書『ぼくは勉強ができない』という興味深いタイトルの裏にあるのは、「勉強ができる人間=すぐれた人間」という、ある意味で横暴とも言うべき学校教育の価値観に対するアンチテーゼである。アンチテーゼなどと書いてしまうと、いかにも大袈裟なように思えるが、物語自体はけっしてそんな重苦しいものではない。著者がその作品のなかで書こうとしているのは常に、世間一般のさまざまな価値観――何の根拠もない、いかにもありふれた常識といったものに捉われず、あくまで自分が気持ちいいと思うこと、正しいと信じることに忠実に生きていこうとする人間たちの、とても素敵な生き様である。ただ本書の場合、主人公として高校生の男の子を選んでいるがゆえに、他人や世間に影響されない強固な個性が未熟な部分があり、そのちょっとした青臭さが、これまでの作品とは異なった、いわゆる青春小説としてのイメージを漂わせることになっている。

 高校生の時田秀美は、冒頭で「勉強ができない」、つまり学校における成績がかんばしくないことをアピールする。もちろん、その裏にあるのは、「勉強はできないけど、人気者だし、女にもモテる」という自身の価値観への自信である。そしてその価値観は、高校という小さな社会のなかで主流を占める価値観とは、けっして相容れないものである。

 じっさい、秀美はよく高校の教師やある種の生徒たちと衝突する。学年でトップクラスの成績を維持している脇山茂、ことあるごとに高尚な悩みにうつつを抜かしている植草、ことさらに初心で無垢な乙女を演じようとする山野舞子、そして生徒の「正しい」教育に熱心な学年主任――本書の面白さは、彼らの抱いている価値観が、じつはそれほどたいして価値を持っていないこと、何の根拠も説得力もない空疎なものであることが、他ならぬ秀美の手で暴露されてしまうことの痛快さであるのだが、本書を読んでいくと、秀美はべつにそうした人間とことさら対立したいわけではなく、ただ彼らが、ありふれた価値観をあまりにも安易に信じており、その価値観を除いたところにある、まぎれもない自分自身がまったく見えてこないことへの戸惑いから来るものであることがわかってくる。

 ぼくが、昔から憎んだのは、第三者が発する「やっぱりねえ」という言葉だった。ぼくは、その逆説を証明することで、自分自身の内の正論を作り上げて来たのだ。それは、ぼくは、ぼくである、というそのことだ。他人が語れる存在にはならないという決意だ。

 秀美には父親がいない。母親は週末には綺麗に着飾って知らない男と出掛けていくし、祖父は祖父で散歩の途中で出会うおばあさんに恋をすることで忙しい。彼が置かれた家庭環境は、たしかに「複雑な」と形容されるものであるが、では複雑ではない家庭環境、「普通の」家庭というものが、はたしてあるのかと秀美は考えるのだ。どんな家庭もそれなりに複雑な事情を抱えているはずなのだ。彼の言動に対して、父親がいない「複雑な」家庭環境にその要因を求めてしまうのは、彼にとっては安易な問題解決であり、怠惰な迎合でしかない。その安易さが、ことさら秀美をいらだたせるのだ。

 青春だなあ、とつくづく思う。もしかしたら、どんな青春小説よりも事実に近い青春を描いた小説ではないだろうか、という気さえする。そして同時に、秀美のような自分が何を感じ、どう考えるのか、ということに対してけっして既存の何かに迎合しない姿は、著者の書く小説を貫くテーマでもある。たしかに、『アニマル・ロジック』にしろ、『A2Z』にしろ、登場する女性たちは皆、まさに彼女たちだからこそ成し得る恋をしていた。年齢とか社会的立場とかいったものが、つまらなく見えてしまうほどの、激しいエネルギー ――そこにはたしかに、自分が生きているという実感があった。

 人間の価値観は人それぞれであるはずだ。だが、世の中のさまざまな事柄に対して、自分なりの意見なり考えなりをもつことは、意外に骨の折れる作業であることを私たちは知っている。なぜ人は死ぬのか、なぜ人を殺してはならないのか、なぜ不倫はいけないのか、なぜ勉強ができなくてはならないのか――ともすると、私たちが陥ってしまいがちな「隣の芝は青い」ということわざへの迎合は、たしかに楽な生き方であるかもしれないが、同時につまらない生き方でもあることを、本書は教えてくれる。そういう意味で、本書はまさに「いい大人」になる道を歩んでいくひとりの少年の、青春小説なのである。(2005.02.22)

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