【文藝春秋】
『ぼぎちん』

横森理香著 



 いつの頃かは覚えていないが、たしか久しぶりに再会した友人と呑みに出かけたとき、その居酒屋の席で「ちょっと前までは何億という金を動かしていたこともあった」と、さかんに昔の栄光を語っていた中年男性の姿を見かけたことがあった。そのときはたいして気にもとめていなかったのだが、今でこそただのしょぼくれたのんだくれのようにしか見えなかったその男も、かつては本当に巨額の金を指先で動かすような仕事をしていたのかもしれない、とふと思うことがある。少なくとも、かつての日本でそのような時代があった、ということを、私たちはたしかに知っているのだ。

 今にして思えば異様としか言いようのない好景気――どこから出てくるのかわからない金があり余っていて、世の中にどんどん高価なモノが溢れ、またどんどん消費されていった、まるで国全体がお祭り騒ぎだったかのような、1980年代の日本経済を「バブル経済」と呼んだ人のネーミングセンスには脱帽するばかりである。たとえば、ただ土地を転がすだけで簡単に飛びこんでくるとんでもない額の金は、まさにバブル(泡)のようにまったく実のともなわない数字でしかなく、そうした金の力で飾られていた世の中全体もまた、その外見の華麗さ、豪華さとはうらはらに、まったく内容のない、たまらなく浅薄だった時代、それがかつて日本人の成金たちが踊らされていたバブル経済であった。

 本書『ぼぎちん』は、そんなバブリーな時代――モノと金ばかりが溢れていた、しかしどこか空虚な時代の雰囲気の中で、あるごくつぶしに恋をしてしまった女子大生の、おかしくもどこか哀しい物語である。

 父が愛人とともに蒸発してから、娘をちゃんとした大学に入れることだけを目標にした母によって、なかば脅されるように「良い子」を演じつづけてきた高岸沙耶は、母の望みどおり桜女子学院に入学したとたん、それまでの禁欲の反動のためか、とんでもない遊び人へと豹変してしまっていた。常に複数人のボーイフレンドをもち、酒と夜遊びと買い物に明け暮れるだけでは飽き足らず、遊ぶ金ほしさに母には内緒でクラブホステスのバイトをし、その客であるスケベオヤジ相手に娼婦まがいのことをして小遣いをもらい、その金で羽振りよく遊ぶ。若くて、無知であるがゆえに際限のない所有欲――だが、どれだけその欲望を満たしても、なぜかちっとも楽しくない。何をしてもすぐに飽きてしまうし、何かに心から満足することも知らなかった沙耶が、ひと目見て好きになってしまった相手こそ、「ぼぎちん」こと堀田タカシだった。

 私は思った。この人って一見冷たそうだけど、もしほんとうに真剣に誰かを好きになったら、ものすごく深く深ぁく、愛するんだろうなって。――(中略)――私を目の中に入れても痛くないくらい可愛がってくれる人、掛け値なしの愛、無償の愛をくれる、なにがあっても、命懸けで守ってくれる存在。ぼぎちんはそういう"素質"があった。

 いつもおどけた態度をとりながらも、どこかに蔭があるような感じのする、けっして若くはない「ぼぎちん」――しかし、彼が本当に、惚れた女を「命懸けで守ってくれる」のかどうかは、おおいに疑問が残るところだろう。なぜなら「ぼぎちん」は、本書を読んだ私が心の底から「どうしようもない」と思ってしまうほどのろくでなしなのだから。

 生粋の博奕打ちで、大金を手にしたときは「ごみくずかトイレットペーパーみたいに」盛大に使ってしまい、金がないときは「倍にして返す」と人から簡単に借りて、しかもまともに返したことがない。博奕に夢中になると女のことなどそっちのけになるくせに、自分が女にほったらかしにされることに我慢がならない。しかも、それが自己中心的な打算から来るのではなく、そのときそのときはまさに大真面目で、人をだまそうという気持ちなどまったく持っていないのだから、余計にタチが悪い。

 真面目に働いて、少しずつコツコツと金を貯めていく、というカタギの生活とは無縁のアウトローに生きる、北方謙三のハードボイルドがお気に入りのぼぎちんにとって、金はただの金、右から入ってそのまま左へと出ていってしまう「あぶく銭」という感覚しかない。そういう意味では、ぼぎちんというキャラクターは、そのままバブル経済の象徴だと言っていいのかもしれない。そしてそんなぼぎちんにとことん惚れてしまった沙耶はその後、クラブのママに脅されたり、カードローンの金を使われたりと、さんざん彼の性格に振りまわされることになる。

 本書は沙耶による一人称という形式をとっているが、ろくでなしのぼぎちんにぞっこんの沙耶と、物語を語る沙耶とはまるで別人であるかのような印象を受ける。自分が暴走しつつあることを知りながら、そんな自分を冷静に分析しているもうひとりの自分がいて、その彼女が物語を進めているかのような形式は、沙耶やぼぎちんが生きていたバブル経済による世界が、それだけ異常なものだった、ということを意味するものだ。モノと金がすべての世界に頭からどっぷりと浸かってしまった人間は、モノと金によってしか価値観を測れなくなってしまうものだが、そんな世界にいながら、金を所有するということにまったく頓着しないぼぎちんの存在は、たとえそれが、その気になれば金などいくらでも儲けられる、という根拠のない自信から来るものであったとしても、金の価値観でがんじがらめになってしまった人たちのなかではたしかに異彩を放っており、金にかける執着の分だけ、誰かを愛する余地を残していると言うこともできるだろう。
 だが、モノと金がすべての世界に生きているがゆえに、愛を表現する方法として、ぼぎちんはけっきょくはモノと金に頼るしかなく、沙耶もまた、モノと金以外にどんな価値観があるのかまったくわからないがゆえに、たとえぼぎちんが博奕に明け暮れて、何日も放っておかれようと、それで満足するより他に仕方がない。ふたりの愛から生まれた不幸は、まさにこの一点に尽きる。

《ジャスト・ミートなフィーリング・カップル》として結びついた沙耶とぼぎちんは、ともに「苦労」とか「努力」といったものを頭から馬鹿にしていた、という点で、どちらも同類だったと言うことができよう。そしておもいっきり胡散臭い俗の極みにあったバブル経済は、そんな彼等の甘ったるい「ファンタジー」をはぐくむだけの土壌をたしかに持っていた。しかし、膨れすぎた泡がいつかは弾ける時が来るのと同じように、沙耶とぼぎちんとの関係のゆく末も、ほぼさだめられている。空虚な時代に空虚な心を抱えたまま、空虚な金に躍らされていた自分――本書はバブル経済華やかなりし時代をとらえた風俗小説であり、そんな時代を象徴するような恋愛小説であると同時に、それまで相手にとって都合の良い女を演じることしか知らなかった女が、まぎれもない自分を見つけるための一歩を踏み出した成長小説でもある。

 バブルがはじけてこのかた、日本の経済は今もなお底の見えない不景気にあえいでいる。だが、資本主義経済における金の価値は昔も今も変わっていないし、ぼぎちんのように「あぶく銭」に躍らされつづける人も絶えることはないだろう。いつまでも自分を甘やかしてくれる、いるだけで心地好い夢のような場所――きっと沙耶だけでなく、多かれ少なかれ金とモノに踊らされている私たちひとりひとりもまた、それぞれが抱く「ファンタジー」から抜け出ることを要求されているのかもしれない。(2002.06.06)

ホームへ