【双葉社】
『ボディ・アンド・ソウル』

古川日出男著 



 小説家というのは、小説を書くからこそ小説家なのであって、小説家になったから小説を書くわけではない、と個人的には考えている。たとえば、私はこのネット上では「八方美人男」であるが、それは私が「八方美人な書評ページ」というサイトをもち、本を読み、書評を書き、さらにリクエストにも応じつづけているからこそ「八方美人男」たりえているのであり、もしそうした行為をやめてしまったら、おそらく私はもう「八方美人男」でありつづけることはできなくなるだろう。
 だから、もし小説家が小説を書くのをやめてしまったら、その人物もやはり小説家ではありえない。むろん、以前は小説を書き、それが出版流通に乗り、そのことによって読者の支持を受けていたのだから、そのときの彼は、紛れもなく小説家のひとりであったと断言できる。だが、そのときの彼と、小説を書かなくなった彼とは、たとえ同じ名前を冠し、同じ肉体を有していても、それはすでに同一人物ではありえないのだ。

 それは、あるいは乱暴な考え方なのかもしれない。たとえ今、小説を書くことがなくても、あるいは小説家でありつづける人はいるのかもしれない。だが、肩書きは――名前をつけられることは――何の約束にもならないし、また何の意味ももたない。かつて「大宮市」だった土地が「さいたま市」に変わり、かつて「営団地下鉄」と名づけられた路線が「東京メトロ」に変わったように、この世のあらゆる事物は常に変化しつづけているのだ。そして、それは私たち人間ひとりひとりにもあてはまることである。であるならば、たしかなのは唯一、行動することだけである。小説家であれば、小説を――物語を生み出しつづけることによってのみ、小説家としての自分をたもつことができるのだ。それは逆に言えば、物語を語る、という行為さえ持続できるのであれば、その書き手が誰であっても、それはたいして重要ではない、ということを意味してもいる。

「フルカワさんは?」
「ん?」
「なにを生かしつづけるために、物語を横溢させつづけているんですか?」

 本書『ボディ・アンド・ソウル』に登場する一人称の語り手は、自身を「フルカワヒデオ」と名乗っている。もちろん、私たちはこの時点で「フルカワヒデオ」なる人物と、本書の著者である「古川日出男」、つまり、かつて『13』『アラビアの夜の種族』『サウンドトラック』といった作品を書き上げた小説家である人物とをイコールで結びつける。そして、本書に書かれていることの大半は、一見するとその「フルカワヒデオ」=「古川日出男」の近況を描いたノンフィクションである。本書のなかの語り手は、角川書店や文藝春秋といった実在する出版社から書き下ろし作品を依頼されており、また自身も私生活において、ふとしたきっかけから次々と新しい小説のアイディアを思いついては悦に入っている。小説を書き、編集者と打ち合わせをし、友人と飲んだり、音楽を聴いたり、あちこちを歩き回ったりしながら、小説家としては充実した時間を過ごしているように見える、ちょっとハイな感じの「フルカワヒデオ」――だが、こうした何気ない日常がえんえんと描かれているその裏には、妻のチエの死という重い事実と向かい合うことのできない、ひとりの人間としての苦悩が隠されているのであった! たらーん。

 ……と、とりあえず本書の概要めいたものを書いてみたものの、どうかこの書評をお読みの方々は、この上述の概要をそのままうのみにしないでいただきたい。というのも、著者があの古川日出男であるからには、生半可な人間ドラマで物語を終わらせるようなことはけっしてありえないからであり、そういう意味で油断のならないのが本書なのだ。だから、本書の語り手が「フルカワヒデオ」と名乗っているからといって、それがそのまま「古川日出男」本人であると信じこまないでほしい。そもそも、小説のなかに小説やその書き手が登場するというメタフィクションにおいて重要なのは、書き手が誰なのか、という点であることは、辻真先の『盗作・高校殺人事件』の書評でも述べたとおりだが、本書の場合、それがたんなる叙述トリックのレベルではなく、人間を構成する肉体と精神の問題として読者に提示されている点にこそ注目すべきである。

 そういう意味では、本書の冒頭で語られる「肉体の叛乱」のイメージは象徴的だ。心と体、はたして「私」を構成しているのはどちらなのか、という問題は、個人としての記憶が脳にのみ収められているのか、あるいは体全体で共有しているものなのか、という問題と同じく興味深いものであるが、死によって魂が昇天したあとに捨て置かれる肉体が、生者への復讐としてハイジャックを敢行するという夢想は、かならずしも心ばかりが個人を形成する要素であるわけではない、ということを指し示している。肉体は時とともに老い、いずれは朽ち果てていく。だが、仮に何かのホラー小説のように霊魂だけが遊離し、別の人間の肉体をのっとるといったことが可能だったとしても、彼はもはや以前の彼ではありえない。いっけんするとあたり前のことを言っているにすぎないのだが、私たちはじつにしばしば、人間が変化する、という事実を忘れてしまうものなのだ。だからこそ「行為」が重要となる。たとえば、小説家として生きつづけるために、小説を書きつづけるという「行為」が。

 本書はいっけんするとノンフィクションであるし、それまでの重厚な表現とはうって変わって、いかにもそれらしい軽いノリで書かれているのだが、そこにあるのはやはりひとつの物語である。何かの枠組みや境界にとらわれない、というのは著者の一貫したテーマのひとつであるが、本書において著者は、フィクションやノンフィクションといった枠組みだけでなく、書き手自身の枠組みをも破壊したと言うことができるだろう。物語の拡散と変容において、誰が物語を語るのかは、さほど大きな問題ではない。そういう意味で、本書もまた物語のひとつの形であり、またひとつの可能性でもある。

 漫画家の藤子不二雄、あるいは小説家の岡島二人は、じっさいは二人の人間によるコンビで物語を創作してきた。その頃に書かれた物語が、はたしてコンビのうちのどちらのものであるのか、ということを判断すること自体、無意味だろう。ふたりがいて、はじめて物語が生み出されたのであれば、それは平等にふたりのものであり、たとえばF・不二雄や井上夢人というあらたな名前をもってしまえば、それは以前のペンネームとはまったくの別物なのだ。物語の書き手はだれなのか、そして物語がどのような変容を遂げていくことになるのか――著者の一貫したテーマは、本書の中においてもたしかに息づいている。(2004.09.28)

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