【マガジンハウス】
『体の贈り物』

レベッカ・ブラウン著/柴田元幸訳 



 19世紀を代表する病気がコレラであるとすると、20世紀を象徴する病気はエイズである、と書いたのは、中島梓の『タナトスの子供たち』である。そもそもインド固有の風土病にすぎなかったコレラが、インドを植民地にしたイギリスを媒介に、世界中で猛威を振るうことになったという事実は、まさに重商主義のかけ声とともに列強諸国が次々と海外進出、植民地政策を進めていった弊害であり、貧富貴賎の別なく、大勢の人の命を荒々しく奪い去ったコレラの力は、産業革命、技術革新によって「病」を克服し、「神」をも超えたと奢った人間への手痛いしっぺ返しであった。

 そういう意味で、コレラが19世紀的であったのに対し、エイズが20世紀的であることの背景には、その主な感染源として「ゲイと娼婦」という、社会が認める健全さ、常識から逸脱した部分がクローズアップされたこと、コレラとは異なり、一度発病しても死に到るまでに長い時間がかかること、しかし、やはり確実に感染者に死をもたらすこと、といったことが挙げられる。
 子孫を残すための性交渉はできない。また、もしできたとしても、生まれてくる子供は先天的エイズキャリアである可能性が高い。こうした事実は、結婚し、SEXし、子供を産んで幸せな家庭をつくる、という、それまで社会があたり前のものとしてさだめていた「愛」の形を、根本からくつがえしてしまう。エイズという病は、感染者、健常者の別なく、あらためて自分たちの「愛」の形とは何なのか、という問題を突きつけるものなのだ。そういう意味で、エイズは20世紀的なのである。

 そして、本書『体の贈り物』である。

 この作品のなかで、一人称で語っている「私」は、「UCS(アーバン・コミュニティ・サービス:都市共同体サービス)」に所属するホームケア・エイド。看護士のように薬を飲ませたりする権限はないが、エイズ患者の宅を訪問し、身のまわりの世話をするという仕事についている女性である。本書はそんなホームケア・エイドとエイズ患者との心の交流を描いた作品だと位置づけることができるのだろうが、その内容に関するかぎり、けっしてそうした背景を意識させるような部分がない。そこにあるのは、「エイズ患者の世話」という、大部分の人たちにとっては非日常的な――あるいは非日常であると信じようとしている――コミュニケーションの場を、まるでごく普通の日常生活であるかのように淡々と語る、ストレートな文体である。そしてその認識は、語り手「私」にとっては、ごく当然のことでしかないのだ。

 患者の身のまわりの世話をする――介護という言葉に、病気の治療という意味は含まれない。そういう意味で、語り手には何の力もない。エイズという病気に関して、基本的に彼女は無力な存在である。そして、本書全体にわたって貫かれている、余計な修飾やもったいぶった感情をできるだけ排した文体と、ホームケア・エイドという仕事の本質とは、けっして無関係ではあるまい。彼女は何より、自分が無力であることを知っている。どれだけ相手の立場になって考え、患者の心に気をつかい、精一杯身のまわりの世話をしても、いずれ患者の病状は悪化し、死を待つだけの施設「ホスピス」へと入らざるを得なくなる。そして、一度「ホスピス」に入ったら、生きてそこを出ることはまずありえない。

 本書のなかで、彼女が世話をしたエドという患者が、「ホスピス」に入って一ヶ月も経つと、友だちをつくることを断念するという場面がある。「どうせすぐ死んでしまうのに、友だちなんか作りたくない」とエドは答えるのだが、それは基本的に語り手も同様なのだ。「どうせすぐ死んでしまう」患者の世話――その事実に気づいたとき、読者はもう一度、エイズという、20世紀を象徴する病と正面から向かい合わなければならなくなる。

 エイズが発病してから患者を死に到らしめるまでに長い時間がかかる、というのは前述したとおりであるが、感染しても発病するまでの潜伏期間が長い、というのもこの病気のひとつの特徴だ。自分が、友人が、あるいは大切な恋人が、もしかしたらエイズキャリアであるかもしれない、という可能性――「愛を交わす」という名の、美化されたSEXがエイズによって否定されたことで、私たちは、緩慢な死だけでなく、人を愛すること、「愛」という言葉の再定義を余儀なくされているのである。

 そういう意味で、主人公が女性である、というのは象徴的だ。彼女が患者に対して示そうとする「愛」の形は、けっして恋人どおしで行なうような、なまなましい肌のふれあいや性交渉ではない。SEXシーンを書けば「愛」を表現できる、という次元からはかけ離れたところに、本書の世界はある。そこにあるのは、「あなたはひとりではない」ことを示す行為である。そして、そのために必要なのは、金品などといった現実的なものではなく、私たちがそれまでずっと軽んじてきた、しかし本当はとても大切な、何気ない思いやりや気遣いの積み重ねであるのだ。

 たとえば、「私」の口から何度も発される「オーケー」という言葉。本書の中ではあえて翻訳していないようであるが、そこで発される「オーケー」は、アメリカ人がなかば口癖のように発するそれよりも、おそらくもっと重い意味を担っているはずである。全体の文体があくまでストレートであるがゆえに、その中にふと差し挟まれるちょっとした行為や言葉が、ときにすごく重い意味を含んでくるのが本書の大きな特長ではあるが、そのなかでも「オーケー」は、さらに特別ではないか、という気がしてくる。

「いいよ」「大丈夫だよ」――おそらくそんなふうに訳されるであろう「オーケー」だが、その言葉がかかってくるのは、その人の存在すべてである。エイズによって、「種の保存」という役割から逸脱してしまったけど、それでもあなたはそれで「いいよ」、そのままで「大丈夫だよ」、と。

 主人公のホームケア・エイドが世話した患者たちがたどるのは、絶対的な「死」だけであるが、彼らが残したものは、あるいは「子孫」という名の分身よりも、もっとずっと人間として大切なものではないだろうか。本書のタイトル『体の贈り物』――The Gift of The Body――に込められた意味を、ぜひとも感じとってもらいたい。(2001.05.09)

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