【中央公論新社】
『ボートの三人男』

ジェローム・K・ジェローム著/丸谷才一訳 



 あなたはボートに乗ったことがあるだろうか。ボートと言っても、競艇場のコースを何の趣向もなくぐるぐる回っているモーターボートや、成金たちが自分の成金ぶりを見せびらかすためだけに購入したりするクルーザーのようなものではなく、たとえば人工池や湖のような場所で一時間いくらで借りることのできる、乗り手がオールで漕いで進んでいく、あのボートである。

 ところで私は、ボートの操作という点では人並み以上の技量を持ち合わせているという自負がある。じっさい、他の人たちの体験談を聞いたり、カップルらしき男女がもたもたとボートを漕いでいるのを見たりするかぎりにおいて、自分ほどうまくボートを操れる人間はそうざらにはいないとさえ思っている。もっとも、それは周囲に自分の知り合いが誰もいない、という条件つきのことであるのだが。とくに、自分がほれ込んだ女性を幸運にもボートに誘うことに成功し、自分のすばらしいボートさばきを披露しようするようなシチュエーションのときなどは、オールで思いっきり水面を叩いて相手を水びたしにしたり、まるで磁石のように他のボートに引き寄せられたり、あまつさえその努力にもかかわらず同じ場所をぐるぐる回ったあげく、オールが両方とも流されてしまい、立ち往生してしまったりといった、いつもならけっしてありえない事態が私を待ちかまえているのが常なのだ。これはなんとも奇妙極まりない話であるが、おそらくボートというヤツは、妙にうきうきしている乗り手の心情を敏感に察知して、その気分を台無しにしてやろうといろいろと策略をめぐらせるに違いない、と今では納得するようにしている。まったくもってこの世の中は、なかなか自分の思うようにならないものなのである。

 そういう意味では、本書『ボートの三人男』に登場するジョージ、ハリス、そして語り手である「ぼく」ことジムの三人もまた私と同様、何かとままならず、思いどおりにならないこの理不尽で不条理な世の中で、不当に貶められている、いわば同志ともいうべき存在である。いや、彼らが現在かかえこんでいる大きな問題を考えれば、むしろ彼らにこそ同情すべきであるかもしれない。何しろ、彼らはその冒頭から重い病にかかっている。いったい何の病気なのか判然としないが、とにかく体調がすこぶるよろしくない。しかも、自分たちが働きすぎであることを誰よりも自覚している。このままでは本当に命にかかわる事態となりかねない――もし、これが普通の人間であれば、それだけですっかり精神を病んでしまい、もう二度と社会復帰できなくにるに違いないところであるが、彼らはけっしてそんなことでくじけたりしない。我々には休息と、そして気分転換が必要なのだと一大決心をし、三人でテムズ河にボートを漕ぎ出して、ひとつしゃれた旅行でもしようじゃないか、ということになる。そして、このときから三人は「ボートの三人男」となるのである。ちなみに、犬のモンモランシーは勘定には入れてないが、彼もまた――彼自身の意見はともかくとして――立派なボートの乗組員であることに間違いはない。

 というわけで、本書は三人が三人ともボケ役を演じているような男三人が、キングストンからオクスフォードまでボートでテムズ河をさかのぼっていく様子を描いたものであるが、本書の最大の読みどころは、三人の男がボートで旅をするという、ただそれだけのことに、彼らがどれだけ多くのハプニングや珍事件を巻き起こしていくか、という点に尽きる。何より、旅をしようと決意してから、じっさいにボートをテムズ河に漕ぎ出すまでが、すでに騒動の連続である。どういった行程をとるかでひと揉めし、何を持っていくべきかであれやこれやで話が脱線し、荷造りをはじめればはじめたで何かと邪魔が入ったりするし、「何時に起こしてほしい」と言ってきたヤツがすっかり眠りこけていたりする。「ボートの三人男」のはずなのに、肝心のボートになかなか乗りこもうとしないのだ。

 そしていざボートを漕ぎ出せば漕ぎ出したで、いつのまにかボートの旅とは直接関係のない逸話が何度となく挿入されるし、何か行動しようとするたびにあらゆるものが彼らの旅行を邪魔しはじめる。当初考えていた、優雅でのんびりとしたボートでの旅――世の中はさも当然であるかのごとく、缶詰を詰め込ませておいて缶切を忘れさせたり、白鳥の大群に襲わせたり、テントに叛乱を起こさせたりするのだが、もちろん、我らが「ボートの三人男」は、こんなことでまいったりはしない。なにより彼らは気分屋なのだ。どんないざこざも、ちょっとお腹がふくれれば、たちまち満ち足りた気分へとくるりと裏返ってしまう。この三人の、あくまで自分たちの都合の良いようになんてもかんでも解釈したり、時と場合によって容易に前言と正反対のことを言ったりする、きわめて神経の図太い様子は、まさにトリプルボケのおかしさであり、ここまで厚顔無恥になりきれれば、たとえこの世がどれだけ理不尽なものであっても、平気な顔で生きてゆけるだろうと感心してしまうほどだ。ここまで書評を読んで、「あれ、彼らはたしか重大な病をかかえていたんじゃ……」などと指摘したりするのは、いかにも野暮な行為と言わなければなるまい。

 こっちが熱心に待っていることが、湯沸しに判ると、絶対に沸騰しようとしないものなのだ。――(中略)――ちょっとでも湯沸しのほうに目をやってはいけない。こういうふうにしていると、間もなく湯沸しはブツブツ言いはじめ、早くお茶にしてくれとわめきだすのだ。

 私たちは、彼らのじつにくだらないこだわりや、現実を完全に無視した独自の屁理屈をおおいに笑う。だが、この理不尽な世の中をうまく生きていく、ということに関して、現実的な考え方ばかりが真実であるわけではない。あるいは彼らのような者たちこそが、この世でもっとも幸せな人間なのではなかろうか。溢れんばかりのユーモアのなかに、キラリと光る生きるためのおおいなる知恵が、あるいはそこにあるのかもしれない。(2004.10.25)

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