【新潮社】
『花粉の部屋』

ゾエ・イェニー著/平野卿子訳 



 ある人から別の誰かへと向けられる感情というのは、それが愛情にしろ憎悪にしろ、ともすると一方通行なもの、個人のひとりよがりなものとなりがちなのを私はよく知っている。それだけ、自身の感情を正しく相手に伝えるというのは難しい、ということでもあるが、同時に人間は主観の生き物であって、個人的な感情や偏見を抜きにして、純粋に相手のありのままの姿、ありのままの気持ちをとらえることの難しさ、というものを感じずにはいられない。

 世間ではよくあることかもしれないが、たとえば、あなたがある男性なり女性なりを好きになったとする。その人はすでに結婚していて、子どもまでいる。あなたが好きになったのは、あくまでその人個人であって、その人の子どもではない。いや、自分の愛の力でその人を独り占めしたい、という感情をいだいているとすれば、かつてその人が愛した配偶者の面影を残す子どもというのは、あなたにとってその存在自体が憎むべき対象と映るかもしれない。そして、自分がその子どもを憎んでいる、という感情は、それがきわめて主観的なものであるがゆえに、憎しみの対象である子どももまた、自分と同じように思っているはずだ、という偏見にとらわれてしまう。

 私が挙げた例は、極端なものだろうか。だが、仮にその子どもがあなたのことを好きになりたい、自分を見て、存在を認めてほしいと思っていたとしたら、あなたの憎しみの感情ゆえに、その思いはいつも裏切られることになる。感情が一方通行であるというのは悲劇であるし、何ともやりきれないものでもあるが、本書『花粉の部屋』に書かれているのは、まさにそうした一方通行な感情にとらわれて、自分の居場所をどこにも見つけることのできない子どもの、ひどく孤独な姿である。

「ねえ、ヨー。わたし、ヴィトーにヨーのこと何も話してないの。つまりね、ヴィトーはわたしに娘がいるなんて思ってもいないのよ。面倒だから、年の離れた妹ってことにしたら、って思って……」
「いいわよ」わたしはぶっきらぼうに言った。すぐに。あっさりと。

 高校を卒業したばかりの本書の語り手ヨーは、母親のルーシーのことを「母」でも「ママ」でもなく、「ルーシー」と呼ぶ。もちろん、はじめからそうだったわけではなく、幼いころの彼女はルーシーのことをちゃんと母と呼んでいるのだが、そんなふうに呼び方が変化した理由のひとつとして両親の離婚、それも、ルーシーが新しい男のことを愛するようになり、その人と暮らすために父とヨーを捨てるようにして出て行ったという事情がからんでいることは、想像に難くない。

 本書を読み進めていくとわかるのだが、このルーシーという女性はおよそ自身の恋愛感情について率直であり、またそうした感情に従って生きていくことが何より大事なことだと信じて疑っていないところがある。それゆえに、自分が別の男が好きになったから出ていく、などといった無神経極まりないことを平気で娘に話したりもするのだが、一度夫婦となったことの責任、子どもを産み、母親となったことへの責任というものについていっさい頓着しない彼女の生き方は、常に恋愛のなかでしか生きられない、と言えば格好はいいが、はたすべき責任よりも自身の恋愛感情に重きを置くルーシーの態度が、ヨーにとって自分勝手で、いかにも子どもっぽいものとして映ったとしても不思議ではない。

 母親のことをルーシーと呼ぶ語り手の一貫した姿勢は、血のつながった母親であるルーシーを母親として認めない、ということの表明でもある。だが同時に、ヨーはまだ十代の女の子でしかなく、自分の居場所を確立できるほど精神的に成熟しているわけでも、また世の中はこんなものだと割り切ることができるほど人生経験を積んでいるわけでもない。いっぽうで母親のことを拒否しながら、もういっぽうで母親として自分を愛してもらいたい、娘である自分のほうを振り向いてほしいという強い願望を捨てきれずにいるところがある語り手の複雑な心境――それを表現することが、本書のテーマのひとつである。

 ただし、そうした語り手の感情は、けっしてむき出しの形で語られることはない。むしろ、自身の感情は極度に抑えるような方向で、彼女は自分の見たもの、聞いたもの、体験したことを、できるだけ客観的に表現していこうとする。だが、そうして客観視される語り手の言動のなかに、私たち読者は知らず知らずのうちに、家族としてのつながりを求めるような何かを探さずにはいられないことに気づくことになる。ルーシーの何気ないひと言に反応し、それに応えようと努力をする語り手――だが、その努力はことごとく実らない。川のなかに次々と飛び込んでいく蝶を救おうと奮闘するが、けっきょく蝶はみんな流されてしまうというエピソードが象徴するように、本書にあるのは、強い思いがあるのに、その思いが相手に届かない、本当に言いたいことが相手に伝わらないということであり、それが他ならぬ血のつながった親子の間で起きているということに、ひとつの焦点がある。

 語り手を置いてルーシーが出ていくきっかけとなったアロイスが事故で死に、ルーシーはアトリエだった部屋に花粉を敷きつめ、そのなかに自身を閉じこめてしまう。本書のタイトルである『花粉の部屋』はここから来ているのだが、精神的に異常を来たしているルーシーに対して、ヨーは今こそ自分が必要とされるに違いないという思いを胸にする。だが、精神が回復したルーシーは、娘を置いてさっさと別の男とくっついてしまう。父親もまた別の女性と再婚しており、そこでも語り手の居場所はない。自分の確かな居場所がどこにもない、という不安は、本書のなかで解消されることはない。そして、だからこそこの物語は――語り手が感情を抑えてあったことを客観的に語っていくこの物語は、読者をたまらない気持ちにさせる。

 家族というひとつの単位の変化、そして家族がはたすべき役割の変化というのは、多くの小説がとりあげるテーマのひとつだ。父親や母親というのは、父親や母親である以前にひとりの人間でしかなく、だから子どものことをすべてわかってやれるわけではない。そしてそうである以上、およそどのような人間関係においても、最低限の意思の疎通というものが必要であり、それがなくなれば必然的にその関係は崩壊していくしかない。親子という切っても切れない関係で否応なくつながっているがゆえに、あたりまえの意思の疎通ができなくなり、本来であればとうの昔に終わっているはずの人間関係を、それでも引きずらなければならない語り手の思いは、今もなお濃い霧のなかにあって、行くあてもなく彷徨いつづけている。(2008.08.10)

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