【角川書店】
『ブルース』

花村萬月著 

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 本物のブルースを聴いてみたい――本書『ブルース』を読み終えて、私は切実にそう思った。

 十九世紀末、重商主義の名のもとに労働力として新大陸に連れてこられた黒人たちに、唯一許された、唄うことの自由――ブルースの起源は、そんな黒人たちの、コールとリフレインを基調とする労働歌から来ていると言われている。アメリカという社会体制のなかで、人ではなく労働力としての価値しか与えられなかった、弱者であり、虐げられる者であった黒人たち、南北戦争による奴隷解放後も、けっきょくは白人たちに押しつけられた、白人たちに都合の良い自由(それは奴隷を個人的に所有することの自由でしかなかった)のなかで、極度の貧困に苦しまなければならなかった黒人たちが、そもそも最初から持っていた「唄うこと」の自由に、自分はたしかにここにいて、ものを考え、生きているのだ、という自己表現を織り込んだとき、ブルースはそこに存在していた。

 どうすることもできない不条理や不運を唄うことでまぎらわし、けっして手に届くことのない夢を歌に託して唄われるブルースは、黒人たちにとっては自分たちの感情を表現する手段そのものである。歌とともに歓び、歌とともに哀しむ――本書に登場するバンドのボーカル、綾の歌声は、深く胸を打つブルースの哀愁にあふれていた。そして、横浜の無法地帯、寿町に住む日雇い労働者、村上の弾くギターは、聴衆すべての心にブルースの楔を打ち込んだ。綾も村上も、黒人ではない。だが聴く人の心の底にわだかまっている、鬱屈した感情を呼び起こし、けっきょくは何も変わらない、どうすることもできないという気持ちを代弁した、という意味では、ふたりの音楽はたしかにブルースだったと言うことができるだろう。

 だが、もしふたりのブルースが同じものであったとするなら、本書のラストでふたりが迎えることになる、それぞれの結末の違いを、いったいどう説明すればいいのだろうか。そしてその違いは、わずか十六分の一とはいえ、綾の体には黒人の血が流れていて、村上にはそれがない、という物理的な、しかし決定的な違いのためなのだろうか。

 本書の舞台は、二十五万トンタンカー「栄光丸」の上からはじまる。原油タンクの底にこびりついたスラッジと呼ばれるゴミの掃除、という仕事に従事している村上の姿は、間違いなく肉体労働者のなかでもとくに最下層に属する、おそらく誰からも見向きされない、薄汚れた日雇い労働者のものである。体に付着すれば一週間は臭いがとれないうえに引火しやすく、また毒ガスを発生させるスラッジ清掃は、まさに命がけの汚れ仕事であり、そういう意味で村上の立場は、たしかにブルースの心を理解する条件を満たしていると言える。本書ではそんな村上が、ひょんなことから入りこんだバーで綾と知り合い、そして綾たちの前で度肝を抜くギターを演奏してみせることで、ひとつの奇跡として一気にスポットライトを浴びることになる様子を描いていく。彼はいったい何者なのか、そして、なぜあれだけのギターの腕を持ちながら、寿町の日雇い労働者に身を置いているのか。

 その日暮らしってのは、ほんとうに悪いことなのか? 俺は明日のことを考えるのをやめて、そして過去を思い出すこともやめて、初めて楽になったんだぜ

 寿町の他の労働者と同じような境遇にありながら、政治運動をしている学生の青臭い思想を論破してみせるほど知的な一面を持ち、また自分の青臭さを自覚するだけの思慮深さの裏に、自分に対する自信を持つことのできない脆さを持ちながら、ときに狂ったような暴力衝動にまかせて、傲慢なまでに他人を叩きのめす村上――彼のもつ、極点から極点への「揺れ」は、著者の書く作品の大きな特長でもある。芥川賞受賞作である『ゲルマニウムの夜』における、聖と俗、もっとも清らかで美しいものと醜く汚れたものとのはざまでの「揺れ」、神の奇跡と悪魔の罪とを同時に内包したとき、そこから何が生まれてくるのか、という著者自身のテーマは、本書の中では「揺れ」という形で具現化されている。

 そもそも本書のはじまりは、激しい時化で大きく「揺れ」るタンカーの上だ。そして「中心にいるべき男」と、同性愛者のヤクザである徳山に評価されているように、たしかにこの物語の中心にいるのは村上であるにもかかわらず、けっして視点を村上ひとりに固定せず、主体は常にさまざまな人間へと「揺れ」動いていく。徳山はそんな村上への、けっしてかなわぬ恋心に揺れ、綾もまた、村上の汚れの中に光るものを見いだし、惹かれていく心をどうすることもできずに揺れ動く。そして村上もまた、綾とともに再びギタリストとしての道を歩き出すべきかどうか、揺れ動く心を抱えている。

 揺れ動く、ということは、けっして安定しない、ということ。ごろごろと転がっていく石――ローリング・ストーンのように。夢は頓挫し、希望は打ち砕かれ、愛は誤解されて憎しみへと変わる。そんな揺れ動く弱き人間たちを表現したブルースは、心を大きく揺さぶられる音楽だ。そして本書もまた、まぎれもなくひとつのブルースである。

 だが、さんざん揺れ動き、ようやくひとつの安定へと収束しかけたとき、著者はみずからその安定をぶち壊すという行為に出る。それは、綾の抱えるブルースが混血という、自分の力でどうすることもできない、ただ受け入れ、乗り越えるしかない類のものであるのに対し、村上のブルースが、かならずしも必然であったわけではない、という認識から起こるひとつの破綻だったわけだが、それは結果として、それまでえんえんと築いてきたものを、ラストの数行ですべてを崩壊させる行為にも等しいものとなった。だが、それはおそらく、村上のギター演奏が起こしたミス・トーンが音楽にまで昇華された奇跡を、読者に思い起こさせるに違いない。

 本書評はリクエスト、というわけではない。だが、本書を読んでいると、かつてこの本が好きだと語った女性の方をふと思い出す。なぜ彼女があれほど著者である花村萬月に、そして本書に入れこんでいたのか、なんとなくわかったように思える。彼女もまた、まぎれもないブルースを抱えていたのだ。

 ブルースとは、聴く人の心を映し出す鏡である。はたしてあなたは「読むブルース」である本書に、何を見いだすことになるのだろうか。(2001.05.17)

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