【角川書店】
『ブルーもしくはブルー』

山本文緒著 



 とうとう私も実家に帰るたびに、親が結婚のことをそれとなくほのめかすような年齢になったわけであるが、たとえ時代がどのように移り変わっていったとしても、結婚するかどうか、結婚するとすれば誰を選ぶべきなのか、といった問題が、その人のその後の人生を大きく左右する重要なイベントであることに変わりはないだろう。むろん、結婚したからといってすべてがそこで決定づけられるわけではないし、今では離婚という選択肢もけっして珍しいわけではないが、なにしろ生涯にわたって共に生きていくパートナーを選ぶ行為なのだ。選ぶべき相手すらいない、というのは論外としても、現在付き合っている異性がいて、「結婚」が現実の問題として目前に迫っているような人たちにとって、相手が自分の伴侶として本当にふさわしいかどうか、ということについて、誰もが一度は真剣に考えるだろうことは、いまだ結婚とは縁遠い場所にいる私にも容易に想像できることである。

 たった一度きりの人生であるが、その人生のなかで出会う異性は、それこそ限りない数におよぶ。そのなかのたったひとりを、生涯の伴侶として選びとる結婚というイベント――もし、既婚者で、今の配偶者とは別の人を選んでいたら、自分の人生はどのように変わっていただろうか、といったことを考えていらっしゃる人がいるなら、あるいは本書『ブルーもしくはブルー』を読んでみるのもいいかもしれない。

 本書に登場する蒼子は、結婚六年目になる主婦であるが、夫である佐々木祐介との結婚生活はとっくの昔に冷め切っていた。経済力だけはある夫は現在別の女性と付き合っており、蒼子がどこで何をしていようと、とくに干渉してくることもないし、主婦としての彼女に何も期待してはいなかったのだ。蒼子もまた不倫相手をつくり、買い物や海外旅行に明け暮れているが、たしかに自由ではあるかもしれないが、夫に愛されていないという事実に満たされないものを感じていた。
 そんなおり、たまたま立ち寄った福岡のある町で、結婚前に交際していた河見俊一の姿を見かける。彼は蒼子が結婚すべき相手として、最後まで悩んだあげくに選ばなかった男であった。今の結婚生活にすっかり嫌気がさし、といってこれからどうするべきなのかもわからないでいた蒼子は、しかし彼がすでに、別の女性と結婚していることを知る……。

 と、こんなふうに書いていくと、まるで昼のドラマにでも出てきそうな、いかにもドロドロとした不倫劇を想像するかもしれないが、蒼子が出会った河見の奥さんは、ほかでもない、蒼子自身であることがわかるにいたり、物語はにわかにホラーめいた様相を呈するようになってくる。彼女――河見蒼子は、佐々木と河見のどちらを選ぶかで死ぬほど悩んだときに、なんらかの理由で分裂し、今は佐々木蒼子となった彼女の選ばなかった男をとった、まぎれもないもうひとりの自分の姿だったのだ。

「……ドッペルゲンガー?」
「前に本で読んだんだけど……分身っていうのかなあ。ひとりの人間から影みたいにもうひとりの人間が別れて、どこか別の場所で生きてるってことがあるんだって」

 はたして、蒼子は精神を病んでいて幻か何かを見ているだけなのか、それとも本当に彼女から別れたもうひとりの自分が存在しているのか、といった謎は、本書のなかではそれほど重要ではない。物語がそれ以降、佐々木蒼子と河見蒼子が一人称の主体を交互に入れ替えながら、それぞれの立場を語っていくという形式をとること、それぞれが今の自分の結婚相手に不満をいだいており、それぞれが偶然にも出会ってしまったもうひとりの自分――自分が捨ててしまった、別の選択肢を生きている自分の境遇をうらやましいと思っていること、そして佐々木蒼子の提案で、お互いの生活をしばらく入れ替えてみる、といった展開を吟味すれば、本書のテーマはほぼ決定されたと言ってもいいだろう。だが、そのことだけをとらえて本書をつまらないとするのは、あまりにも早計である。

 これは山本文緒の作品全般について言えることだが、著者が生み出す女性の登場人物は、たいていすごく自分勝手でわがままな性格で、しかも思い込みが人一倍強かったりする。そうした性格の女性は、なにかといろいろな場面で他人と衝突したり、いらぬ恨みを買ったりするものであるが、別の見方をすれば、彼女たちはそれだけ、そのときの自分の気持ちに正直に生きている、ということになる。

 今回の物語で、そうした性格の蒼子が衝突することになるのは、他ならぬ蒼子自身である。そういう意味では、本書の展開になかなか興味深いものがあるのはたしかだ。最初は気心のしれた友人のように思っていたもうひとりの自分――だが、自分の影だと思っていた彼女が、当初の約束を守らないばかりか自分勝手な行動をとり、少しずつ自分を追いつめていきさえすることに憤り、恐怖する。しかも、その相手は自分自身なのだ。まるで、ひたすら一人相撲をとっているかのようなその姿は、滑稽であると同時に、じつは私たち自身が、自分自身に対してしばしばおこなっている自己嫌悪、自己憐憫といったものと、よく似ているのである。

 私は、この時初めて気が付いた。
 どうして今まで気が付かなかったのだろう。目の前に立っている女は私なのだ。
 嘘つきでわがままで冷酷な人間。それが私だ。彼女は私そのものではないか。

 現実の世界に、もし蒼子のような性格の人間がいたとしたら、相当嫌だろうと思う。だが、本書のなかには蒼子の父も登場するのだが、自分では何も考えず、人に言われるままに行動し、何かトラブルがあると、それが通り過ぎるまでひたすら自分の殻に閉じこもる、という、まったくもって主体性のない彼の姿もまた、相当に嫌な性格である。それを考えたとき、たとえ周囲に迷惑をふりまくことになるかもしれないが、それでもそのときの自分の思うことをしっかりと口にすることができる、というのは、人としての魅力のひとつとして機能しているのではないかと思うのだ。

 もしかしたらありえたかもしれない、もうひとつの選択肢―― 一度の人生で、その両方の道を体験するという不思議に巻き込まれた蒼子は何を思い、そして彼女にどのような結末が待ちかまえているのか、ぜひ本書を読んでたしかめてみてほしい。(2003.11.24)

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