【新潮社】
『青い鳥』

重松清著 

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 本当は言いたいことがあるのに、それをうまく伝えられないのは、もどかしい。言葉にしてしまうと、とたんに陳腐な、ありがちなものに置き換わってしまったり、大切なことがそこからこぼれ落ちてしまったりして、自分が言いたかったことから大きくズレてしまう。そしてそのズレた言葉を、別の誰かが曲解して受け取ってしまうのは、もっと怖い。私たちは言葉で意思の疎通をはかる生き物で、だからこそ言葉というものは、人と人とのつながりを確認しあうための大切なツールであるはずなのに、なぜ私たちはその言葉で、自分の言いたいことや感じていること、心のなかに渦巻いている気持ちをきちんと相手に届けることができないのだろうか。

 どうでもいいことや軽口なら、いくらでも話すことができる。でも本当に大切なことを言おうとすると、とたんに言葉に詰まってしまう。どんなふうに言ったところで、それを真剣に受け止めてくれる人がいなければ意味がない、と思ってしまう。そこにあるのは、本当のことがちゃんと伝わらないのではないか、という怖れだ。だが本当に怖いのは、いつしか本当に言いたいことを誰かに伝えるのを、あきらめてしまうことではないか、と本書『青い鳥』を読み終えて思うようになっている。私みたいないい年をした大人なら、まだいい。逃げ場所くらいはいくらでもあるからだ。だが、社会的にはまだまだ弱い立場にある子どもたちに、逃げる場所はけっして多くない。言いたいことが伝わらない環境に置かれてしまった子どもたちは、はたしてどこへ行けばいいのだろう。そして自身の本当の気持ちを、どこにぶつければいいのだろう。

 先生は、ひとりぼっちの。子の。そばにいる、もう一人の、ひとりぼっちになりたいんだ。だから、先生は、先生をやってるんだ。

(『進路は北へ』より)

 本書は表題作をふくむ八つの短編を収めた作品集であり、それぞれの作品のなかでは、なんらかの問題をかかえた中学生が語り手となって、物語を進めていくというパターンを踏襲する場合が多い。そしてそんな彼らが抱えている問題は、たいていの場合、学校生活に関係したものである。たとえば、『ハンカチ』に登場するある少女は、学校ではいっさい喋ることができない。『ひむりーる独唱』に出てくる少年は、担任の先生をナイフで刺し、保護観察処分を受けている。父親の自殺が原因で私立から公立の中学に転校せざるを得なくなり、クラスになじめずにいる生徒もいれば、逆にクラスメイトを牛耳って執拗に担任の嫌がらせを行なうような生徒もいる。

 物語の舞台となる学校も、そこにいる生徒も、そしてある生徒の抱えている問題やその原因も、短編ごとにそれぞれ異なっているのだが、一貫して言えるのは、そうした生徒たちが立場はともあれ、いずれもひとりぼっちであったり、本当に言いたいこと、感じていることが誰にも伝わらないという孤立感をかかえていたりする、ということである。そしてもうひとつの共通点として登場するのが、村内先生の存在である。

 彼はたいていの場合、本来の担当の先生の代わりに、ごく短い期間だけ先生として勤める非常勤講師であり、国語を担当課目とする、あまりぱっとしない中年男性であるが、彼をもっとも印象づけるのは、彼がひどい吃音だという点である。国語の先生であるにもかかわらず、生徒たちの前でうまく喋ることができない。とくに「カ」行と「タ」行、濁点の入る単語はほぼ間違いなくどもってしまう。当然、授業は他の先生のそれよりわかりにくいし、その喋り方ゆえに生徒たちからからかわれたりもする。だが、本書に収められた短編を読み進めていくうちにわかってくるのは、そんな村内先生が、生徒たちに勉強を教えるということとは違った理由で、いくつもの学校を渡り歩くように転任を繰り返し、またその先々に問題を抱える生徒、「普通」からはみ出てしまった生徒がいる、ということである。

「でも、伝わるのよ、村内先生が言いたいことは、ちゃんと伝わる」

(『おまもり』より)

 話し言葉でしょっちゅうつっかえてしまう村内先生とコミュニケーションをとるのが、そのほかの「普通」の人たちとのそれと比べて大変だということを、想像するのは容易だ。むしろ文字で書いたほうがよほどわかりやすいだろうことは、授業を進めるさいに要点をまとめたプリントを配ったり、あるいは『ハンカチ』における日記の件からもわかる。しかし、それでも村内先生が苦手なはずの「喋ること」をあえて続けるのは、相手に何か大切なことを伝えるには、自分の口から直接伝えるしかない、という思いがあるからに他ならない。

 それは逆に言えば、本当に大切なことは、どれだけ言葉がつっかえても、少なくともこちらが本気で喋っているということだけはかならず伝わる、という強い信念があるからこそのものであり、そうであるからこそ、相手が本気で何かを伝えたいという思い、心の叫びにも気がついてあげられるし、また応えられるということでもある。村内先生が学校に来て、いろいろな問題をかかえてひとりぼっちになっている生徒に対して「何かしてあげる」ということはない。彼にできるのは、どもりながらも常に本気で喋るという自分の姿を、生徒たちに見せることだけなのだ。

 本書のなかではあまり露骨に書かれてはいないが、そうした彼の態度に大半の生徒たちは気がついていないし、むしろそのふつうではない喋り方を迷惑にさえ思っているふしがある。だが、それは自分がふつうに喋ることができること、そして喋った言葉が相手に伝わるということがあまりにあたり前すぎて、その大切さに気づいていないというだけである。世の中というのはけっして誰もがみんな同じような価値観や思いをもっているわけではなく、それゆえに表題作である『青い鳥』のように、ひとりの生徒の本気の言葉に、誰ひとり気づいてやれなかったり、あるいは『進路は北へ』のように、ある生徒の態度を一方的に悪いふうに受け取ってしまう。そこには、言葉のやりとりはあるが、真の意味でのコミュニケーションは成立していないのだ。そして村内先生の存在は――そのぎこちない吃音は、コミュニケーションとは何なのか、ということをあらためて突きつけてくるものでもある。

 少し前に挙げた『ハンカチ』の日記の件とは、生徒は全員日記を書いて先生に提出し、先生はそれに対してコメントをつけるというその学校の校則のことなのだが、本書の短編の舞台になる中学校では、この手の約束や決まりごとが多い。過去に生徒のいじめや自殺といった問題が起こり、その反省から「友情」や「仲間」、「団結」、「思いやりの心」といった言葉のもと、じつにさまざまな取り組みが行なわれているのだが、そうした、上からの押し付け的な取り組みが、今度は別の生徒の心を圧迫し、孤立させていくというのはなんとも悲劇的な皮肉であるし、より大きな枠における「言いたいことが伝わらない」という例にもなっている。ある印象的なシーンを冒頭で切り出しておいて、少しずつその全容を見せていくという手法が巧みな本書であるが、村内先生というキャラクター設定をはじめ、物語を構成する個々の要素の選択と、そのつなぎかたの上手さもまた際立った短編集だと言える。

 コミュニケーションというものは、言葉を使うことができるということも重要ながら、何より自分ひとりだけでは絶対に成立しないものだ。そして、周囲にどれだけ多くの人がいたとしても、人は容易に孤立し、ひとりぼっちになってしまうこともある。誰かがそばにいてくれること――学校に通えば、そこに担任の先生という大人がかならず付き添っているわけであるが、それがどれほど大切なことなのかということを、本書は何より雄弁に物語っている。(2009.11.28)

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