【早川書房】
『血液と石鹸』

リン・ディン著/柴田元幸訳 



 2009年のエイプリル・フールに本サイトで行なった嘘つき企画は、存在しない本の書評を書く、というものだった。存在しないということは、当然読むこともできず、書評など書きようがないわけなのだが、たとえばハリー・ポッターの外伝が出たとしたらどんな感じの物語になるのかとか、コンピューターおばあちゃんが実在の人物だったら、どんな人生をおくることになるのか、と想像することはできる。そして、そうした本があると仮定して、自分だったらどんな書評を書くだろうかといろいろ試してみた結果、エイプリル・フール当日には三作の架空の本に対する「褒める書評」ができあがっていた。

 その企画は個人的には初の試みであり、対象の本が存在しない以上、そのとき私の書いた書評は、厳密には書評ではなく私の創作物ということになるのだが、なまじ私がふだんから書いている「書評」という形で言葉にされてしまっているがゆえに、そこに妙な現実味が漂っていたことは覚えている。もし何も知らない人が、いくつもの書評のなかにこうした創作書評が混じっているのを目にしてしまったとしたら、その人の主観ではまぎれもない現実のものとしてそれらの本が実在してしまうのではないか――非常に大袈裟な物言いかもしれないが、言葉というものは、無から有を生み出すように、文字どおり世界を構築していくだけの力を秘めているのかもしれない、とちょっとだけ実感したという意味で、今回のエイプリル・フール企画は有意義なものだったと言える。

 ところで、今回紹介する本書『血液と石鹸』という短編集のなかにも、似たような試みを行なっている作品がある。『ただいま上映中』というタイトルのその短編では、じっさいには存在しない映画の感想が列挙されており、あまつさえ星の数による評価までつけられているのだが、じつは本書のタイトルとなっている『血液と石鹸』は、同名の短編があるのではなく、この『ただいま上映中』のなかに書かれた、架空の映画のタイトルからとってきたものなのだ。そしてこの構造――本書の看板となるべきタイトルに、現実には存在しない短編の名前をもってくる構造――こそが、本書に収められた短編の性質を如実に物語っているものでもある。

 たとえば『囚人と辞書』では、牢獄に放り込まれたある囚人がそこで外国語の辞書を発見し、そこに書かれている事柄をなんとか解読しようといろいろと推測をめぐらせていくのだが、当然のことながらその推論は間違っており、言葉を読み解いているつもりが、まったく独自の言語体系を生み出しているような状態に陥っている。『!』は偽英語教師の話だが、彼は戦争で捕虜になったアメリカ人の話す言葉を書きとめたメモから、インチキな英語を生み出して生徒たちに教えていた。『浮かぶ共同体』で発見されたボートピープルたちは、世界から長年隔離された生活をしつづけてきたがゆえに、独自の文化や文字を創造するにいたっていた。『キーワード』の世界では、話し言葉や書き言葉のセンテンスごとに感嘆符を付けることを義務づける法案を出している。「無気力な市民たちに活力と意欲を吹き込」むことがその趣旨であったが、今日ではその目的は忘れられ、無意味な法律だけが横行しているという皮肉の効いた短編となっている。

 幸福な結婚式を挙げたはずのカップルが、その晩のうちにホテルの窓から同時に飛び降りてしまう『私たちの新郎新婦』や、無数の料理本を買い込みながら、それを読むことだけで満足してしまっている本末転倒な友人のことを書いた『食物の招還』など、本書の短編に登場する人たちは、むくわれない努力をつづけていたり、何の生産性もないことに異様な情熱を燃やしていたりすることが多い。とくに、言葉に対する皮肉の効いた作品が多く、彼らは意識するしないにかかわらず、その言葉の本来もつ意味から離れ、まったく新しい言葉の使い方をしていたり、本来あるべき使い方とは異なる用途で用いるようになっていたりするのだが、こうした言葉の解体から再構築にいたる流れは、小説家というよりは詩人に近い思考が垣間見えて興味深いところがある。

 インチキの英語でも、英語なしよりはいい。いや実際、本当の英語よりいいくらいだ――それはイギリスだのアメリカだのの現実なんかに対応していないのだから。

(『!』より)

 全部で37作の作品を収録した本書のうち、その大半はベトナムを舞台としたもので、たとえば父に対していろいろと複雑な感情をいだいていたある男が、父とよく似た顔の知事の写真が掲載されている新聞から、その写真の部分だけ切り抜いたところ、その父親が死んでしまうという『わが国北の果ての知事』や、空っぽの棺桶を埋めるという呪いによってゴーストタウンと化した町のことを書いた『隠された棺桶の町』など、その国、その町独自の迷信めいた事柄を題材としていると思われるところがあるのだが、そこに展開される世界は、ただたんにベトナムという国のことを意識して書いているというよりは、物語の舞台がたまたまベトナムだったという雰囲気がある。たとえば、「ベトナム文学」などといった言葉でひとくくりにしてしまうには、本書の世界はあまりに特殊なものであるからだ。むしろ、言葉をもちいてこの世のどこにもない世界を生み出そうとしている、という表現のほうがしっくりくるものがある。

 前述したように、英語をはじめとする既存の外国語をベースとしていながら、それに対する接しかたがきわめて特殊であるがゆえに、英語ではない、かといってベトナムの言葉とも言えない独特の言語を創作してしまう、といった短編が本書のなかにはいくつか収録されている。それは、見方によっては正しい言語体系を学ぶことができない、そもそも正しい言語とはどのようなものかすら知らない者たちへの皮肉とも受け止められるが、私はむしろ、そうした独自の言語体系によって、これまで知らなかった新しい世界を再構築しようとしている躍動感を強く感じた。そしてそんなふうに考えたとき、表題としてこの世に存在しない映画のタイトルをもってくるという本書の意図がうっすらと浮かび上がってくることになる。

 言葉がたんに言葉という枠組みを超えて、世界に浸透し、作り変えていく――言葉そのものがもつある種のダイナミズムと、そこから生まれてくるものを、ぜひたしかめてもらいたい。(2009.06.02)

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