【幻冬舎】
『血と骨』

梁石日著 



 ときどき、自分と他者との関係において、他者が自分にとってどれだけ有益な存在であるかという物差しにとらわれている自分がいることに気づいて、そんな自分にうんざりしてしまうことがある。

 人は基本的にひとりでは生きていけない。たとえ、ひとりで生きていけると思っている人がいたとしても、それは文字どおりそう思い込んでいるにすぎず、じつのところさまざまな局面で他人からの恩恵を受けているところがあるし、また逆に、自分の働きが他の誰かの助けとなっていることもありえる。そもそも人間社会というのは、ひとりでは生きられない人々が寄り集まり、お互いに協力しあって生きていくために形成されていったものだ。人間関係というのは、けっして打算や損得勘定ですべてが測れるわけではないし、仮に測れたとしても、それはあくまで自分のものの見方でしかなく、言ってみれば自分だけの都合である。

 自分にとってその相手がどれだけ役に立つかという物差しは、裏を返せば役に立たないと分かってしまえば、その人間関係を維持していくことは無駄でしかなく、切って捨てるべきもの、ということになる。それはあるいは単純でわかりやすい価値観かもしれないが、人と人との関係がけっして単純なものではないことを知っている者にとっては、そうした価値観は得体の知れないものに映る。同じ人間であるにもかかわらず、まったく違った価値観を生きているゆえに、言葉のやりとりをしても、根本的なところで話が通じない――本書『血と骨』に登場する金俊平という男は、まさにそういう意味において強烈なインパクトをもったキャラクターだと言える。

 凄まじい我執の自己顕現なのだ。家庭を持って平穏に暮らせる男ではない。群れをつくらず一頭だけで行動する虎に似ている。そう言えば金俊平の眼は虎にそっくりだと高信義は思った。

 朝鮮半島の南に位置する済州島から日本に出稼ぎに来る朝鮮人が急増した一九三〇年代、金俊平もそのひとりとして大阪の蒲鉾工場で働いていた。低賃金で長時間労働を強いられる底辺の仕事であり、それゆえに荒くれ者や無頼漢の集まるなかにあって、金俊平の存在がひときわ異彩を放っているのは、その魁偉な容貌、鬼神のごとき巨漢、そしてその肉体から繰り出される圧倒的な暴力といった要素もあるが、何より決定的なのは、けっして人を寄せつけようとしない威圧的な雰囲気であり、不用意にその内に踏み込んでしまうと何が起こるか誰にもわからないという、ある種の不気味さにこそあった。言ってみれば、彼とまともな対話をすることはできないし、また彼が何を考えているのかを知ることもできないのだ。それゆえに、誰も彼に近寄ろうとしない。その凶暴さゆえに極道にさえ怖れられる金俊平は、人間社会のなかにあってこのうえなくやっかいな異物という立ち位置のもと、物語は展開していく。

 ひたすら自分の都合しか考えない思考、理屈や恩義といった概念など歯牙にもかけず、常に胸の奥にふつふつと滾っているほの暗い憤怒の感情に突き動かされるように、暴力でもってあらゆるものをねじ伏せて生きていく金俊平にとって、他者との対話とは暴力に他ならず、女は自分の欲望を満たす肉でしかない。そして、言葉に言葉を返すことでお互いのコミュニケーションが成立するのと同じように、金俊平に対しては暴力に暴力が、あるいは恐怖が返ってくる。本書は基本的にその繰り返しであり、彼をとりまく多くの登場人物が出てくるにもかかわらず、彼はその誰ともまともな人間関係を取り結ぶことができない。弱い人間からはひたすらむしりとる、歯向かう人間は容赦なく叩き潰す、女からは快楽をむさぼる――常に一方的な関係しか結ぼうとしない彼の人生は、まるで自身が台風であるかのように、周囲にひたすら傷跡を残していく。その生き様はたしかに凄まじく、圧倒されずにはいられないものがある。そして同時に、彼の人生はそんなふうにしかありえなかったのか、と思わずにはいられないものも、たしかにあるのだ。

 本書における在日朝鮮人の立場は、基本的に弱者である。それは同時に、物語のなかだけでなく、今もなお日本の社会がかかえる問題のひとつでもあるのだが、それゆえに彼らは同胞意識を大切にするし、お互いに助け合って生きていこうとする傾向にある。もちろん、なかには一時的な感情に突き動かされて後先考えない行動に出たり、博打や酒といった即物的な快楽を求める者もいるが、朝鮮戦争勃発時には、祖国の行く末を真剣に案じ、自分たちにも何かできることがあるのではないかと論議したりする場面もある。だがいっぽうで、そんな彼らに対する醒めた視点があるのもたしかだ。小難しいことを語り、ときに激論を戦わせたりするインテリたちが、しかし自分では何ら金を稼ぐ手段をもたず、女から金を借りたり、ツケで店のものを飲み食いする様子は、たしかに非生産的であり、金俊平からすれば噴飯ものでしかないだろうことは、容易に想像できる。そういう意味で、ひたすら力だけを頼りに、すべての人間を自分と対等な人間ではなく、歯向かってくる敵、あるいはたんなる獲物としてとらえるという彼の生き様は、ある種の潔ささえ感じられるものがある。だが彼は、本当にそんな殺伐とした価値観しか持ちえなかったのだろうか。

「誰がわしを助けてくれる」というのが口癖だった金俊平の言葉をくつがえす論拠は世間の人々にはないのだ。金俊平の生き方をある物差しで計ることはできない。ときには戦争をも容認してしまう常識という実体不明の倫理観ほどいい加減なご都合主義もないからである。

 私たちはひとりひとりは脆弱であり、ちょっとしたことで揺れ動いてしまう心の持ち主でもある。だからこそ、そんな自分をしっかりと支えてくれる何かにすがらずにはいられない。それはあるいは家族であったり、あるいは国への帰属意識であったりするのだが、金俊平の場合、そうした目に見えないもの対する不信感が常に働いているようなところがある。というより、言葉が生み出す概念に意味を見出していないと言ったほうがいいかもしれないが、そうなると、信じるべきなのはたしかな手ごたえのあるもの――けっきょくは己の肉体への信奉へと向かうことになる。そして幸か不幸か、彼にはおよそ衰えを知らない頑健な肉体に恵まれていた。暴力が同時に対話でもあった彼の価値観に、ついていける人間はそうそう存在しない。唯一の友人であった高信義でさえ、暴力という言葉で彼と結びつくことは不可能だった。だが、暴力には暴力しか返ってこないし、それはあらたな暴力の火種しか生まない。それこそが金俊平のかかえた不幸であり、あるいは運命でもあったと言える。

 彼はよく「出てきてわしと勝負しろ」と叫ぶ。だが、その言葉を受け止める人間は存在せず、放たれた言葉はいつもむなしく響き渡るだけである。金俊平の存在感は圧倒的ではあるのだが、同時に圧倒的な孤独をかかえてもいる。およそ孤独という言葉を体現した人物として、金俊平という男ほど似つかわしい者はいない。

 ひたすら力で他者を屈服させることに血道をあげ、後には金に対する執着を見せる金俊平は、結婚するのも子どもを産ませるのも相手の事情などおかまいなしであり、それゆえに家族とのつながりさえも自ら否定してしまうような生き方しかできない。家族とのつながりにおいてさえ、強者と弱者という物差ししか持ち込めなかった金俊平の人生――その波乱に満ちた生涯は、きっと読者に人と人とのつながり、とくに家族というつながりとはどういうものなのか、ということを考えさせずにはいられない。(2010.05.05)

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