【東京創元社】
『黒百合』

多島斗志之著 

背景色設定:

 人は変わる。

 それはあたり前のことであるし、およそ人だけでなく、この世にあるあらゆるものは、日々少しずつ変化していく。私たちの成長は、そうした日々の変化の積み重ねによって成り立つものであるし、またそうでなければ、私たちがこの世で生きる意味の多くが失われてしまうことにもなりかねない。変化するというのは、けっして悪いことではない。だが、今という時間がこのうえなくいとおしい人にとって、成長するということ、自身やそれをとりまく環境が変化していくというのは、あるいは苦悩をもたらす事態であるのかもしれない。

 人は変わる。そして人は、変わっていくことを止められない。どれだけ変わりたくないと思っていても、そんな当人の思惑とは関係なく、心も体も変化をとげていく。それこそ、経過した年月や経験した事柄によっては、以前とはまったくの別人のようになっていたとしても、けっしてありえないことではない。だからこそそこに人間ドラマが生じることになるし、また雨森零の『首飾り』をはじめとした、少年少女の成長をテーマにした作品には、同時に成長にともなう心身の変化にとまどい、心の痛みが生じていく過程が描かれていくことになる。

 だが、こうした人間の変化をテーマにすることができるジャンルは、かならずしも青春ものに限定されるわけではない。そういう意味で、今回紹介する本書『黒百合』は、人間が変わっていくということについて、そしてその変化に人の感情がどこまでついていくことができるのかについて挑戦した意欲作であると言うこともできる。

「実際は四年もたったら一彦君も進君も、それにあたしかて、みんなどんどん変わってしもてるに違いないわ。――(中略)――ひと月くらいなら忘れへんとしても、四年もたったら、お互いに忘れてるんやないかしら」

 昭和二十七年の夏休み、当時十四歳だった寺元進が、父の古い友人の勧めで六甲山の別荘に招かれたときの出来事を回想する、という形で物語が進んでいく本書は、そのまま素直に読み進めていくなら、少年のひと夏の淡い思い出を描いたストレートな青春もの、ということになる。博識ではあるが、そのあたりの知識をひけらかそうとするあたりが、まるで大人になろうと必死に背伸びしているような子どもっぽさのある浅木一彦、そしてふたりでたまたま向かったヒョウタン池で出会った倉沢香――はじめて会った進たちに、自分のことを「池の精」だと告げる気さくな彼女は、あっというまにふたりの友だちとして毎日を過ごすことになる。子どもであるからこそ可能な、打算も損得勘定もない関係――だが、六甲山にひときわ大きな別荘をもつ家の子である彼女が、複雑な家庭の事情をかかえていることを、後に進は知ることになる。

 ふだんと違った環境、ふだんと違った友だち、そんなひときわ特別な時間のなかで、少しずつ芽生えてくるほのかな恋心――こんなふうに書いてしまうと、まさに青春小説の王道を突き進んでいるかのように思えてしまう本書であるが、そうした流れとはいっけん何の関係もなさそうな物語の断片が、この作品のなかには混じっている。ひとつは「相田真千子」と名づけられた章で、時代は昭和十年。進と一彦の父親ふたりが、宝急電鉄の創始者でもある小芝一造の海外視察旅行の男性秘書としてついていったときのエピソードで、そのときベルリンの駅で彼らが出会ったのが、相田真千子と名乗る女性であった。もうひとつは「倉沢日登美」と名づけられた章で、時代は昭和十六年から二十年にかけて。ここで語り手となっている人物の名前はあきらかにされていないが、宝急電鉄の車掌で、のちに運転手となった人物であり、倉沢日登美とは男女の恋愛を匂わせながら、ほかにも愛人がいることから、それなりのプレイボーイであることが察せられる。そして終戦間際のある日、ふたりの関係をめぐって日登美の兄である貴久男とひと悶着があり……。

 この倉沢日登美という女性は、本書のメインの話のなかでも、香の叔母として登場する。このときの彼女は、すでに新也という夫がいる身であるのだが、なぜかその夫に対する態度はそっけないものがあることが書かれていく。そういう人物的なつながりという意味では、このふたつのエピソードはメインの話とまったくの無関係というわけではない。だが、物語全体を俯瞰したときに、これらのエピソードがどのような形でメインの物語と絡んでくるのか、そのつながりがなかなか見えてこない。逆にいえば、そのつながりという謎をもって読者を物語世界に引っ張っていくことこそが、本書の真骨頂であるとも言える。

 そういう意味では、本書は表面上こそ少年少女の青春ものというジャンルの小説を装ってはいるが、その裏にあるのはこのうえなくミステリー的な要素であり、むしろ私たちがメインだと思っていた物語こそが付属品、もっと言うなら、本来のミステリー的要素をカモフラージュするための要素でしかない、ということになる。はたして、相田真千子とは誰なのか、彼女は誰を、何のためにベルリンで待っていたのか、終戦間際に起きた空襲のどさくさにまぎれて倉沢貴久男を殺害したのは誰なのか、そして、そうした謎の人物たちの過去には、どのような出来事が隠されているのか。進たちの夏休みの思い出という形を借りて、そのあたりの謎を少しずつあきらかにしていくその計算高さ、すべての真相があきらかにされたときに、あらためて気づかされる数々の伏線のうまさが際立つ本書であるが、そうしたミステリーとしての要素とは別に、再度本書の表と裏の物語を対比させたときに私がふと考えるのは、人が変化していくということに対するある種の可能性である。

 相田真千子の章のなかで、彼女がユダヤ人とドイツ人の男女をかくまって、ゲシュタポに拘留されたというエピソードがある。ナチスドイツの勢力がかつてない勢いで広がりつつある当時のベルリンにおいて、彼女はともすると自分の命すら危険にさらしかねないことをあえて冒しているのだが、この印象深いエピソードが意味するものは、何より彼女の心のうちにある芯の強さ、ということになる。そして何より、彼女が自分の思うことに忠実であろうとしたこと、何より自由であろうとしたことを意味してもいる。それは、当時の日本の価値観からすれば、驚くべき考え方である。

 誰かが誰かを好きになる、その思いをてらいなく相手に伝えるという自由――本書の表にあるのは私たちにしてみれば、なかば形骸化したとさえいえる恋愛のひとつの形であるが、その裏はそうした自由さえ望むことができず、またお互いに望んでいたはずのものが虚構でしかなかったという恋愛のにがさ、苦しさというものがある。はたして本書が指し示す真相に、あなたはどのような感想をいだくことになるのだろうか。(2009.03.11)

【ネタバレ注意】愛情と憎悪が織り成す密やかな物語――『黒百合』考


ホームへ