【東京創元社】
『黒いトランク』

鮎川哲也著 



 私が大好きな場所のひとつで、一度オフ会の場所としても訪れたことのある「日本科学未来館」は、世界最多の星を見ることができるドームシアターのプラネタリウムをはじめ、科学の最先端を楽しみながら学ぶことができる企画やイベント、展示物に溢れていて、ここへ来ると私たちの生きる世界にも、まだまだ不思議なことやわからないこと、面白いことや美しいものがたくさんあるんだなと再認識させられるのだが、そのイベントのひとつとして、二足歩行ロボット「ASIMO」によるショーがある。

 26の自由度をもち、二本の足で立って歩くことができるのが最大の特長であるこのロボットによるショーは、最後にかならずあるパフォーマンスを披露して終わりを迎えるのだが、それが会場に設置された台の上まで階段を使って上り下りする、というものであり、それはロボットの技術としては画期的なものであるにもかかわらず、オフ会に来ていただいた方々の反応がいまひとつだったことが、妙に印象に残っていたりする。それは、私が想像していたほどの反響がなかった、ということだけではなく、あるひとつの真理とでも言うべきものが、そのときの私の心に去来したことが大きい。それは、いっけんすると地味で目立たないような事物のなかに、時としてとんでもない何かが隠されている場合がある、ということであり、それは逆にいうなら、いかにも派手で人目を惹くような言動が、かならずしもそれにふさわしい内容をともなっているわけでもなく、物事の真実はけっしてその外見や表面に見えている部分だけで推し量れはしない、というひとつの真理でもある。

 二本の足で立って歩く、という行為――それは、私たち人間の多くがあたり前のように行なっている動作のひとつにすぎない。だが、そのあたり前の動作がきちんと成立するためには、クリアしなければならない問題がそれこそ山のように存在することを、私たちはどれだけ意識することができるだろうか。本書『黒いトランク』は、ある事件の真相をさぐっていくという一点にテーマが絞られている、という意味で、純粋な本格推理小説として位置づけられる作品であるが、だからこそ、その内容や物語の筋を単純に追うような読書の仕方では、本書の真髄を見逃してしまうことになりかねない。それこそ「ASIMO」の階段の上り下りのような、地味で目立たない物語展開の裏には、それを成立させるためのトリックや工作が何重にも仕掛けられており、その全容が少しずつあきらかにされていく過程こそが本書の醍醐味であり、それは同時に、物語のなかに仕掛けられた謎に読者が挑戦する余地を充分に残しているということでもある。そういう意味では、本書は読者が真のミステリーマニアであるかどうかを測るための、ひとつの登竜門であるとさえ言える作品なのだ。

 いまだ戦争の爪痕があちこちに残っている1949年の年の瀬、東京の汐留駅にとどけられた不審な荷物が事件の発端となった。トランクに詰められた男の腐乱しかかった死体――受取人の名前も住所もでたらめであり、駅で保管されているうちに異臭が漂うようになって発覚した殺人事件であるが、受取人と同じくでたらめだろうと思われていた、荷物の差出人の近松千鶴夫という人物は、福岡県若松市に実在することがすぐにあきらかになる。しかもこの男、麻薬の密売人として当局の監視下にある人物であり、ただちに重要参考人として手配されることになる。彼の住居のすぐ近くにある倉庫から、被害者のものと思われる遺留品が見つかり、近松が被害者を福岡で殺し、トランクに詰めて東京に送ったという一連の犯行の手順が浮き彫りになっていくが、事件はその近松の自殺という形であっさり決着してしまう。瀬戸内海上で死体となって発見された近松は、兵庫県別府町の港で服毒のうえ海に飛び込んで自殺した――関係者の証言や物的証拠の数々が、そのひとつの結論を指し示していた……。

 物語はその後、警視庁の警部である鬼貫という人物が、近松の妻由美子の訴えを受けて、独自にこの事件の真相を追うという展開となるのだが、その捜査線上に近松と行動を共にしたとされる、全身青づくめの謎の人物が浮かび上がり、さらに死体を詰めたトランクとまったく同じタイプのトランクが、福岡県内の鉄道駅で奇妙な動きをしていることがあきらかになるにつれて、単純だと思われていた殺人事件の背後に複雑で、底の知れない大きな謎の一端が少しずつ読者の目にも見えてくるという意想外な様相を呈することになる。

 ふたつのトランクによる死体のすり替えトリック、西村京太郎の鉄道シリーズを思わせる、九州や中国地方をめぐる旅の行程と時刻表をもちいたトリック、さらには容疑者と思われる人物の巧妙なアリバイ工作や登場人物の入れ替わりなど、およそミステリーの基本とも言うべきさまざまなトリックや謎を網羅しつくした感さえある本書は、警察の捜査が進んであらたな事実が出てくるにつれて、事件の全容がはっきりするどころか、むしろ新たな謎が次から次へと浮かび上がる構造となっており、まるで先の見えない迷路に迷い込んだかのような感覚に陥ってしまう。それだけこの作品に仕掛けられたトリックが、複雑で巧妙なものであるということでもあるのだが、それにも増して驚かされるのは、本書が純粋にミステリーとしてのトリックと、その謎解きの論理性のみを武器として物語を展開しようとする一種の矜持である。

 本格ミステリーとしての、その潔癖なまでの物語構成は、その冒頭から何の前ふりもなく、いきなり「この事件の発端となった千九百四十九年十二月十日は……」とつづく文章を見てもわかることであるが、たとえば本書において探偵役となる鬼貫警部は、かつて近松と由美子をめぐって婚約者の座を争ったという過去をもち、由美子の心が今もなお鬼貫のことを忘れられずにいるという設定があるにもかかわらず、そうした人間ドラマとしての側面や、あるいは事件の真犯人の犯行の動機といった社会的な側面を下手にクローズアップするようなことはせず、最後まで事件の謎を残したうえで、その謎解きを論理的に提示するという一点のみで物語を進め、かつ終わらせようとする。それは、ミステリーのミステリーたる要素がどこまで小説としての面白さに迫ることができるのか、という著者の挑戦といっていいものであり、これほどまで徹底してトリックと、その謎解きに力をいれ、かつ論理的に破綻のないものとして完成させたその力量は感服すべきものがあるのは間違いない。しかし、だからこそと言うべきなのだろうが、物語の展開としては鬼貫の地味な捜査とその考察が連続するというものであり、派手なアクションも燃えるような展開もなく、純粋にその事件の謎を楽しめない読者にとっては、先を読み進めていくのに非常な忍耐を要するものとなっているのだ。じっさい、私も本書の謎を理解するのに再三読み返す必要があったし、一度その全容をまとめるためにメモ書きを繰り返さなければならなかったほどである。

 「ASIMO」のただ階段を上り下りするだけというパフォーマンスが、一見するとどうということではないようでありながら、じつはものすごい科学技術の結晶であるのと同じように、本書も本格推理小説としてのひとつの完成形と言うべきものを誇っている。もし本書をすごいと感じることができるのであれば、あなたはミステリーマニアとして一人前だと言うことができるだろう。逆にもし本書が楽しめないというのであれば、じつはあなたは、自分が思っているほどミステリー好きな読者ではないのかもしれない――というふうに書けば、本書のミステリーとしての水準がいかに高レベルなものであるか、その一端でもわかってもらえるのではなかろうか。(2007.03.18)

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