【徳間書店】
『マライアおばさん』

ダイアナ・ウィン・ジョーンズ著/田中薫子訳 



 自身の強い思い込みや世間一般の常識とされている事柄に邪魔されて、物事の真実が見えなくなってしまうというのは、私たち人間がよく陥りやすい過ちのひとつであるが、それが当人ひとりだけの問題であれば、当人が恥をかくだけの話であり、むしろ過ちを過ちと知ることができたぶん、その人は賢くなることができたとさえ言えるだろう。

 問題なのは、自身の思い込みが真実であると信じて疑うことを知らない人たちだ。真実でないことを強引に真実だと信じているのだから、小さな子どもであればいざ知らず、いい歳をした大人が現実の世界で生きていれば、当然のことながらそこから何らかの齟齬が生じてくるはずで、普通に考えればそこで何かがおかしいことに気がつくはずなのだが、意図的になのか、あるいは無意識のうちになのか、どうも彼らにとって都合の悪いことは、すべて耳に入らなかったことになってしまうようなのである。養老孟司のベストセラー『バカの壁』の理論は、まさにこのことを指していて、私もこの手の人とネットでやりとりしていて、どうにも話がかみ合わなかったという苦い経験を何度もしたことがある。そしてこの手の人たちは、ときにその思い込みの強さが自身でも意識しない悪意となって、周囲にいる人たちに多大な迷惑をかけることが多いのだ。

「おばさんだって悪意があるのよ。だから私たち三人とも、いやな気持ちになってるの。あの人はどうしようもなくわがままで、他人を自分の思いどおりに動かすのがものすごく得意なの。人が悪意を抱いてしまって悪かったと思う気持ち、つまり、良心の呵責を利用しているのよ。――」

 本書『マライアおばさん』に登場するレーカー 一家は、冒頭からいきなり家族崩壊の危機をむかえることになる。そもそもの原因はクリスとミグの父親であるグレゴリーが、よそで女をつくってかけ落ちしてしまったからで、そのこと自体は物語の展開として、今ではけっして珍しいものではなくなってきている。もちろん、その当事者であるレーカー 一家ではそれどころではないし、じっさいにとんだ騒動となっているのだが、本書の大きな特長は、そんな一家にとっての一大事をも霞ませてしまうほどの、圧倒的な存在感を見せつける「マライアおばさん」のキャラクター性にこそある。

 なんだかんだの騒動の末に、クランブリー・オン・シーという海辺の町に住んでいるマライアおばさんのところに向かったグレゴリーだが、その途中に彼を乗せた車が崖から海に転落、そのまま行方不明になってしまう。マライアおばさんは、グレゴリーの義理のおばさんにあたる女性で、彼が行方不明になって以来、残されたベティやその子どもたちを心配して、何度もしつこく電話をかけてくる。ミグもクリスもその度を超えたおせっかいにいいかげんうんざりしていたのだが、年上の人に対しては礼儀正しい母親のベティは、とうとう丸め込まれて、イースターの休暇にふたりをつれてマライアおばさんの家を訪ねることになってしまった。

 ミグの一人称によって話が進んでいく本書であるが、とにかくこのマライアおばさんがとんでもなくいやらしい人なのだ。彼女はことあるごとに誰かに頼みごとをするのだが、その頼み方もまたいやらしい。というのも、けっして直接ああしてくれ、こうしてくれと頼むのではなく、上述の引用文のように、頼む相手の罪悪感をかきたて、まるでこの人の望むとおりにしない自分がとんでもなく悪いことをしているかのように思わせてしまう、そんなネチネチした頼み方なのである。それも、ときにはごくささいなこと――たとえば台所に置いてきた眼鏡をとりにいかせるといった、「そんなの自分でやれよ」と言いたくなるような用事さえも、とにかく自分ではいっさい動かずに誰かにやらせようとする。都合が悪くなると、すぐに「か弱い年寄り」を演じたり、聞こえなかったふりをしたりと、タチが悪いことこの上ないマライアおばさんに、母親は来る日の来る日も召使いのごとくこき使われることになり、クリスはことあるごとにマライアおばさんや、彼女の取り巻きらしいおばさんたちに反抗するようになる。そしてミグはといえば、退屈きわまりないマライアおばさんの話し相手をさせられ、日記帳にマライアおばさんの悪口をぶちまけることでそうした鬱憤をはらしている始末なのだ。

 いったい、なんだってマライアおばさんはこんな、けっして露骨ではない、しかしだからこそ始末に追えない悪意で人々を支配してしまうのか? 物語が進むにつれて、ミグやクリスは彼女の住む町が、じつはいろいろとおかしなところ――たとえば、男の人がみんなゾンビみたいに意志薄弱であったり、子どもの姿が町のどこにも見当たらず、唯一森の中の孤児院らしきところで見つけた子どもたちは、みんなクローンみたいに不自然な行動をしていたり、崖から落ちたはずの父親の車を見かけたり、あげくにクリスの寝室となった部屋に幽霊が現れたりといった、変なところがあるのに気がつくようになるのだが、そうした不思議な謎を少しずつ提示していくことで、読者をさりげなく現実の世界からファンタジーの世界へと引き込んでしまうやり方が巧みである。そしてそれと同時に、マライアおばさんのもつ力の正体についても、じつはファンタジーの要素が強く絡んでくることになる。だが、だからといって本書の物語が荒唐無稽のものかといえば、けっしてそんなことはない。

 なぜなら、本書のテーマはあくまでマライアおばさんのような人たちがもつひそかな悪意――自分がぜったいに正しいというかたくなな意思から生じる一種の思考停止状態が、どのような災厄をもたらすことになるか、ということであり、物語のなかに出てくる魔法の要素は、物事が停滞したまま発展していかない状態を強調するための演出にすぎないからである。

 人は自分が正義だと確信したその瞬間から、疑問に思うこと、考えることを放棄する。正義というのはあくまで相対的なものにすぎず、一面では正義であってもべつの面では悪であることも、けっして珍しいものではない。マライアおばさんが住んでいるクランブリーは、言ってみれば町全体が発展すること、成長することを放棄した状態にあり、マライアおばさんはその中心にいる。そう、本書は二十世紀末のイギリスを舞台にした物語ではあるが、日常のなかで生きていた主人公が、ふとしたきっかけで非日常の世界を訪れるという、ファンタジーの王道パターンを本書でも踏襲しているのである。そして、本書において一人称の語り手となっているミグは、母親やクリスのようにはっきりと自分の意思を主張するということがなかなかできず、ともすると物語の世界にひたってしまう内気な女の子であるが、自分たちが紛れ込んでしまったクランブリーという名の非日常のなかで、マライアおばさんとの対決をとおしてひとまわり成長していく姿を描く、というパターンも、ファンタジーになくてはならない要素である。

 はたして、ミグたちは無事ロンドンの家に帰ることができるのか。そしてマライアおばさんはどうなるのか。限りなく現実に近い――マライアおばさんのような人は、じつはこの世界にもたくさん見かけることができる、という意味で――、しかしたしかにファンタジーの要素を盛り込んで読者を魅了する本書を、ぜひ楽しんでもらいたい。(2005.12.23)

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