【早川書房】
『グラン・ヴァカンス』
−廃園の天使1−

飛浩隆著 



 今ここに存在しないものを知るために、かならずしもその対象が目の前に存在しなければならない、というわけではない。たとえば、私たちは大昔に滅んだとされている恐竜をこの目で見たわけではないが、長い時を経てなお残されているわずかな痕跡をもとに、見たこともない恐竜という過去の生き物について、私たちはかなり詳細なところまで――その姿かたちはもちろんのこと、基本的な性格や習性、何を食べていて、どんなふうに戦い、どれくらいの群れをつくっていたのか、といったところまで知ることができるようになっている。もちろん、それは状況証拠でしかなく、現実にその真偽をたしかめるというわけにはいかないが、逆にだからこそ、私たちが想像する恐竜たちの世界は、もしかしたら本当に過去にあった恐竜たちの世界よりも、ずっと豊かなイメージのなかで息づいているのかもしれない、と思うことがある。

 たとえば、私は想像する。私たち人間が何らかの理由で死滅して、その後何千年、何万年という時を経たのちに、まったく別の知的生命体によって人間という生き物のことが調べられるようになったとき、はたして彼らは人間をどのように定義づけするのだろうか。もし、美しい芸術品の一部でも発見され、それが彼らにとっても同じように芸術的価値が高いと見なされるなら、彼らは人間のことを、美しいものを愛する平和的な習性がある、と判断するかもしれない。もし、戦争兵器の一部が発見され、彼らがそれを兵器だと理解すれば、彼らは人間のことを、殺戮を好む野蛮で戦闘的な習性がある、と判断するかもしれない。そして私たちは、その両極端な解釈が、どちらも間違いではないことをよく知っている。

 高貴であると同時に下劣であり、美しくあると同時に醜くもあり、善であると同時に悪でもある、複雑でユニークな思考を個々にかかえこんでいる人間たち――今回紹介する本書『グラン・ヴァカンス』は、サブタイトルに「廃園の天使1」と振られているように、一連のシリーズの第一作にあたる作品であるが、じつはこの物語のなかには、ただのひとりも生きた人間が登場せず、その点こそが本書最大の特長のひとつとして機能しているのは間違いない。だが、この決定的に人間不在の世界であるにもかかわらず、まるで恐竜の化石のように人間の痕跡だけは感じとることができるという、奇妙な背反が本書にはあるのだ。

 南欧の田舎の港町をイメージしてデザインされた、古めかしくて多少不便なヴァカンスを楽しむための<夏の区界>――それは、広大なネットワークのなかに創られた仮想リゾート<数値海岸>(コスタ・デル・ヌメロ)の一区画であり、その永遠にくり返される夏の世界のなかでは、それぞれ役割を与えられたAIたちがいつものようにそれぞれの役割をはたして一日を過ごしていた。「鳴き砂の浜へ、硝視体(グラス・アイ)をひろいにいこう」という一文からはじまる本書の冒頭から豊かな筆致で描かれる、ある夏の日の一場面は、読み手にどこか遠い過去の懐かしさを生き生きと思い出させるような雰囲気に満ちているが、同時に、その世界が仮想のものでしかないこともまた、文章のいたるところにちりばめられている。自由奔放でちょっとエロティックなジュリーも、そんな従妹のことをひそかに恋焦がれる秀才のジュールも、じつはこの世界が仮想のリゾート地であり、自分たちもそのリゾートを訪れる「ゲスト」をもてなし、楽しませるためにつくられた存在でしかないことを自覚している。だが、「ゲスト」たちがここを訪れていたのは、<数値海岸>がオープンしてからの五十年のあいだだけ。「大途絶(グランド・ダウン)」と呼ばれる現象から千年ものあいだ、ここ<夏の区界>は人間に見捨てられたリゾートとして、訪れる者もなく、といって機能が停止することもないまま、飽くことも知らず同じ一日をくり返しつづけていた。

 その世界において魔法のような力を発揮する硝視体の存在や、異世界からやってきて、その世界のあらゆるものを食らいつくしていく「蜘蛛」など、どこかファンタジー的要素を内包する本書は、基本的にはその正体不明の敵である「蜘蛛」の大群を相手に、AIたちが世界の存亡をかけて闘う様子とその顛末を書いた作品である。はたして「蜘蛛」たちはどこからやってきたのか。どんな目的があって<夏の区界>を侵攻していくのか。そもそもなぜ<数値海岸>は千年ものあいだ放置されつづけているのか、外の世界でいったい何が起こったのか、そして「ゲスト」たちが途絶えてから出現するようになった「硝視体」とは何なのか――いくつもの謎を秘めながら展開する本書の、あくまで物語としての要素をとりあげるのであるなら、物語の舞台としてわざわざそこが仮想現実であることを読者に認識させる必要性はない。三部作の第一作目ということであり、今後続くであろう主人公AIの遍歴の、いわばプロローグとしての位置づけになる本書のみで全体を評価するのは、いささか乱暴な部分もあるのだが、あくまで本書の舞台が仮想現実であり、しかも登場人物たちがそのことを意識しているという特長から、いくつかの見解をしめすことは可能だ。

 本書のなかに、生きた人間はひとりも登場しない、と上述した。登場するのは、人間とそっくりではあるが、ある特定の役割をあたえられたAIのみである。逆にいえば、彼らはあたえられた役割以上のことはけっして行なえないし、区界の基底に直接関与するようなことなど当然のことながら不可能である。にもかかわらず、彼らは外の世界のこと、そしてその住人である人間たちのことを意識している。私たち読者は登場人物であるAIたちに、あくまで人間としての感情を投影して読み進めていくことになるが、何よりAIたちの、AIであるという認識が、その投影を遠ざけてしまう。そして、その遠ざけられた読者の認識は、そのままAIたちの置かれた状況――放棄されたリゾートという、きわめて閉塞的で、私たちの生きる世界から遠ざけられた仮想世界という要素に対していだかざるをえない距離感でもある。

 そう、<夏の区界>があくまで人間たちのためにつくられた世界であるとするなら、その人間が来なくなった時点で、<夏の区界>はその存在意義を失って等しいことになる。だが、それがわかっていて、なおAIたちにできるのは、自分たちにあたえられた役割を演じつづけることだけなのだ。そしてそれは、「蜘蛛」の侵攻によって世界が崩壊の危機を迎えることになっても、基本的には変わらない。AIたちは武器を手にとり、硝視体の力を借りて「蜘蛛」たちと戦うが、そのいっけん人間らしいふるまいのすべては、アルゴリズムの集積体が導き出す計算結果でしかない。そういう意味で、本書の結末は最初から定められたものでしかないとさえ言える。

 夏の朝の明晰な光に包まれた、多くの自然に溢れる美しいリゾート地、そしてそこで暮らす人々の、なぜかどことなく官能的なふるまい――その美しさ、魅力は、その後展開していく「蜘蛛」たちとの絶望的な闘いと、その過程でおこる残酷な場面との対比によって、いっそう際立つことになる。このうえなく美しい世界でありながら、その裏にこのうえなく醜い部分を隠し持つ仮想世界、それは、人間によって作り出された欲望のはけ口であるがゆえに、人間の手を離れてもなお、美しくも醜い人間の属性をそっくりそのまま背負いつづけることを宿命づけられた世界でもある。だからこそ、AIたちのふるまいは儚く、哀しい。

 いっさいの人間を排除した仮想世界でありながら、その成り立ちゆえにこのうえなく人間臭い部分、いや、人間の本質的な部分を意識せずにはいられないこのシリーズが、たとえば同じ仮想世界をあつかった川端裕人の『The S.O.U.P』とくらべても、異質な雰囲気をまとっているのはたしかである。今後どのような展開を迎えていくことになるのか、今は見守っていくことになるだろう。(2006.04.19)

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