【晶文社】
『壜の中の手記』

ジェラルド・カーシュ著/西崎憲他訳 



 たとえば、隆慶一郎の『影武者徳川家康』とか、佐藤賢一の『傭兵ピエール』とか、あるいは鯨統一郎の『邪馬台国はどこですか?』とか何でもいいのだが、その作品を読んでいるあいだは、たしかにその作品世界に惹きこまれ、もちろんそれが物語であり、虚構でしかないとわかっていながらも、それでもなおなんらかの信憑性と規律をもったひとつの作品世界として私のなかで輝いていたはずの小説が、いざ自身がその話の内容を相手に伝えようとすると、とたんに色あせた、つまらない、それどころかいかにも作り物めいた印象ばかりが先走ってしまうのは、どういうことなのだろうと思うことがある。おそらく、私がこの場で「じつは江戸時代の徳川家康は影武者で、本物は関ヶ原の戦いの直前に暗殺されていたのだ」とか、「じつは1431年に火あぶりにされたジャンヌ・ダルクは、本物ではなかったのだ」とか、「じつは邪馬台国は東北地方にあったのだ」などと語ったところで、誰もまともに信じはしないに違いない。だが、それが物語という形をとったとたん、どんなに荒唐無稽な話であったとしても、そこにまぎれもない真実が含まれているような気がしてくるのだから、人間の言葉によって紡がれる物語というのは、よくよく不思議な力をもっているのだろうと思うのである。そして、だからこそ私は今もなお、物語というものに惹かれずにはいられないのだ。

 本書『壜の中の手記』は、表題作を含む12の短編から成る作品集であるが、これらの作品の内容やあらすじをこの場で紹介していくこと自体に何の意味もないばかりか、下手をすると作品世界がもつ独特の雰囲気を一気に台無しにしかねない。なぜなら、本書に書かれていることは、普通に考えればけっして現実にはありえない荒唐無稽な話ばかりであり、梗概だけ取り出してみせたとしても、そこにはすでに「物語る」ことによってのみ生み出される輝きが失われてしまっているからである。そう、さながら夜明けの光に照らし出されることによってかかっていた魔法がとけ、たしかに手にしていた宝石がただの石ころに変わってしまうような、儚いようで強烈な夢幻の世界が、本書にはたしかに広がっているのだ。

 親父は何についてであれ、即座に話を創りあげてそれを披露することができた。親父は六ペンスの安ぴかについて、話をでっちあげて、話の面白さだけで、それを十ポンドで売ることができた。

(『破滅の種子』より)

 何の根拠もないただの噂話――怪談や都市伝説といった話を人に語る場合に、よくその前置きとして使われる文句として、「これは友人の知り合いから聞いた話だけど……」といったたぐいのものがあるが、たとえば、『豚の島の女王』では、無人島で発見された手足のない白骨化した人間の持ち主だったと思われる、グラウチ・バッグのなかに入っていた紙片に書かれたものを公開する、という形で物語が進んでいくし、表題作である『壜の中の手記』は、文字どおり奇妙な形をした「オショショコの壜」のなかに隠されていた、その内容を信じるならアメリカの作家アンブローズ・ビアスが失踪する直前に書いた手記をもとに話が進んでいく。『骨のない人間』では、どう見ても錯乱状態にあるとしか思えない理学教授が体験した信じられないような話を聞かされる、というシチュエーションであるし、アマゾンの奥地に住む原住民を相手に、不思議な木の実の力で大量の黄金をゲームで勝ち取ったという『黄金の河』の話も、死んだ国王とそっくりの機械仕掛けの人形をつくって、国の政治を動かしていたという『時計収集家の王』の話も、いずれもとある人物から、それぞれの短編で一応の語り手となっている「僕」なり「私」なりが話を聞く、という形式をとっているものが大半である。

 ここでもちいられる一人称の人物は、実質的には物語を語る立場にいながら、じつは物語を語る側ではなく、物語を聞く側にいるという逆転した位置にあり、それゆえに本書のなかで語られる荒唐無稽な話に対するいっさいの責任を免れている。しかも、それらの話の事実を裏付ける物的証拠は、その物語のなかで紛失するか破壊されるかして、何も残っていないという状態にある。つまり、本書に収められた短編集は、そもそも「伝聞」というあいまいな形式を基本としているうえに、そこに書かれている要素だけを取り出してみれば、まったくもって何のリアリティもないウソ話でしかないのだ。にもかかわらず、読者がそのウソ話についつい引き込まれてしまうのは、ひとえにそこに仕掛けられた現実から虚構への切り替え方のたくみさに尽きる。

 本書の短編の大半が、伝聞の形をとっている、ということは上述したとおりであるが、じつは物語の導入部分では、きわめてリアリティの強い現実世界が展開されている。そこには年代や人物名、あるいは歴史などに出てくる固有名詞がふんだんに使われていて、いかにも私たちが現実に生きる世界のどこかが描かれている。そんな世界のなかで、唯一存在感の薄い一人称の「僕」なり「私」なりは、その無個性ゆえに容易に私たち読者と同化してしまい、いつのまにか登場人物の語る話に耳を傾ける役を引き受けている。そしてそのとき、私たちはすでにそのウソ話のなかにどっぷりとつかっている、というわけである。現実から虚構へ――まるで、サーカスのテントの外から入り口をくぐって中に入っていくかのように、本書の短編はいずれも現実から虚構へのさりげない道をつくり、読者をしかるべき幻想世界へと導く手順を踏んでいるのだが、私たちがその入り口に気づくのは、すでに中に入ってしまってからなのだ。

 密林の奥にある人跡未踏の地、周囲から隔絶された収容所や無人島など、物語の舞台となる場所がふだん私たちが生活している町から離れたところに設定されていることが多い、という意味では、本書は今ある世界からもうひとつの世界へと行き来するファンタジーとしての要素をもっている、とも言うことができるが、本書の短編集はけっしてそうしたジャンル分けが通用するものではない。ただ、ひとつだけ言えるのは、そこには言葉のもつ力――ときに現実をも凌駕しかねない言葉の魔力がたしかに宿っている、ということである。贈られた相手に不幸をもたらすという話をでっちあげられた安物の指輪が、人から人へと渡っていくうちに現実に呪いの力を発揮していくという『破壊の種子』や、狂人の血液からつくった溶液を食虫植物にあたえた結果、とんでもない感染力をもつようになる『狂える花』、より強力な武器の開発を追及していったある武器商人の奇妙な顛末を描いた『死こそわが同志』などは、あたかも物語の力が虚構の枠を突き破って、にわかに現実世界を侵食していくかのような展開の話であり、ファンタジーというよりは、むしろホラーに近い色合いをもっている。

『カームジンと『ハムレット』の台本』のように、比較的ハッピーエンドで終わる作品もあるが、本書の短編の大半において、登場人物たちは不条理な出来事になすすべもなく翻弄されていく、無力な存在でしかない。それも、論理的に説明のつくような不幸であればいいのだが、たいていが話したところで相手にもされないような、それこそ作り話のような不幸に振り回されていく。だが、それも著者が本当に書きたかったものが人間ではなく、純粋な物語であったとするなら、ちっぽけな人間をあくまで物語を構成する要素のひとつとして使っていたとしても、それは何の不思議もないことだと言えるだろう。読者はただ、ぬけぬけと語られていくウソ話を心ゆくまで楽しめばいいだけなのだ。(2006.02.24)

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