【理論社】
『ベルリン1945』

クラウス・コルドン著/酒寄進一訳 



 たとえば、学校におけるいじめの問題を取りあげてみる。あるクラスにおいていじめが行われたと認識されたとき、そこには必然的に被害者と加害者が生まれることになる。そのさいに、いじめに直接荷担した加害者たちはもちろん「悪いこと」をした、ということになるのだろうし、それは誰の目から見ても明確である。だが、そのとき被害者がこんなことを言ったとする。「いじめを黙って見ていたヤツも同罪だ」と。あるいじめに直接荷担はしなかったものの、その行為を見て見ぬふりをした者たちは、本当に加害者と「同罪」として扱われるべきなのか。

 ドイツにおけるナチスの問題、あるいは日本におけるアジア諸国への侵略問題について対峙する必要に迫られたときに、私の頭のなかには、いつもこの「いじめ」における黙認者たちの罪のことが思い浮かぶ。日本が過去に戦争を起こし、敗戦したという事実は知識として知っている。国際社会において、日本人はしばしば過去の戦争犯罪に対する立場を明確にすることを迫られるという話を聞いたことがあるが、私にとってその戦争はすでに過去の出来事であり、私という個人が直接戦争を体験したわけでも、兵士として敵国と戦ったわけでもない。私がまだ生まれてもいない時代の、自分の国が犯した罪をどう思うのかと問われても、判断に困るとしか言いようがない、というのが正直な感想なのだ。そしてそういう意味で、私にとってこの問題と「いじめ」黙認の問題とはよく似た性質をもつものとして認識されている。

 いじめが「良くない」ことであることは理屈ではわかっている。だが、他ならぬ自分のクラスでいじめが発生しているとわかったときに、はたして自分にその「良くない」ことをなんとかしようと行動することができるのか、とシミュレートしてみることは、少なくとも戦時における戦争反対運動への荷担を想像することよりもよりリアルだ。ドイツの転換期を描く三部作の最後を飾る本書『ベルリン1945』は、そのタイトルからもわかるように、ドイツが敗戦する年のベルリンを描いた作品であるが、そこにあるのは、たんなる戦争の終わり――ベルリンという都市の崩壊ばかりでなく、人々の精神をも崩壊させた戦争終結というだけでなく、十二年近くもつづいたナチスの体制について、ドイツ市民たちが何を思い、どう感じたのか、という点に尽きる。

「だけど最悪なのは、われわれもこの犯罪に荷担してしまったことだ。盗人の犯行を止めなかった者は同罪だ。人殺しがなにをするつもりかわかっていながら手をこまねいていた者は自分から仲間になったも同然だ。唯一われわれにできる言い訳は恐怖だ。連中は十二年間、われわれに不安と恐怖をふりまいてきたから、好き勝手ができたんだ」

 本書の主人公となるのは、第一作『ベルリン1919』の主人公ヘレの娘であるエンネだ。そして彼女の年齢は、ヒトラーがドイツ首相となり、ナチスがドイツを支配した年月と同じである。そしてその十二年目にあたる一九四五年、ベルリンは連合国の爆撃機による空襲にさらされていた。連日のように鳴り渡るサイレンの音、地下の防空壕への避難、そして地上を蹂躙する爆弾の炸裂する振動――昼夜の別なく繰り返される爆撃は、ゲープハルト一家はもちろん、ベルリン住民たちの日常を限りなく疲弊させるものであった。

 エンネたちの住むアッカー通りは、本シリーズをとおして、ベルリンのなかでもとくに貧しい者たちが寄り集まる界隈であるが、ベルリンじゅうが空爆によって破壊されつつある本書の時代においては、もはやそれはささいな事柄と化している。学校のクラスメイトがある日を境に登校してこなくなり、それが空爆によって家族か、あるいは本人が亡くなったからだと知らされるというのが常態にあって、エンネは特別な事情で両親と引き離された環境で過ごしてきた。共産党員だったヘレは国家反逆罪でナチスに逮捕され、強制収容所に入れられていた。母親のユッタもまた逮捕され、今はもう生きていないという。そしてそれは、エンネが物心つく以前に起こってしまったことだった。それゆえに、エンネは最近まで祖父母が両親だと思い込んでおり、その事実を知ったあとは、祖父母のことを「おじいパ」「おばあマ」と呼ぶことで折り合いをつけている。

 ドイツの首都にまで爆撃機が飛んでくるような事態のなかで、それでもナチスの勝利を盲目的に信じて権力を振りかざす軍人がいるいっぽうで、早々にナチスに見切りをつけ、都合よく趣旨換えをしようと画策するナチス党員も出てきており、すでにドイツの敗戦色は濃厚ではあるのだが、歴史上の事実として、ソ連軍によるベルリン陥落によって戦争状態が終結することを知っている私たちにとって、重要なのがその点でないことは言うまでもない。むしろ本書を読むうえで焦点となるのは、戦争が終結したあとのことだ。かつてナチス党を第一党として受け入れ、ヒトラーを総統として認めてしまった自分たちは、はたしてただ被害者面していていいのだろうか、という葛藤――それは、かつて労働者として共産党を支持し、結果としてナチスの支配に反抗するという姿勢を示すことになったゲープハルト一家の視点だからこそ、よりいっそう際立った問題として提示されることになる。

 本シリーズの特長のひとつとして、ヘレをはじめとするゲープハルト一家の思想が共産主義、社会主義的な傾向をもっている、というものがある。とくにヘレについては、その思想のせいで十二年間も強制収容所に入れられており、ある意味で筋金入りのアカだと言うことができる。しかしながら本書では、ベルリンを占領したソ連軍たちによる略奪や暴力行為といった様子について書いているだけでなく、ナチスの台頭を怖れてモスクワに亡命していたヘレの友人の口を借りて、ソ連における社会主義の実情が、じつはスターリンによる独裁政治でしかないという事実を語らせている。そしてそれは、ヘレたちの抱いていた理想が、ただの理想でしかなかったという現実をつきつけるものでもある。

 ナチスドイツは間違っていた。だがそれは、戦争に負けたから間違いだったわけではない。逆にソ連の社会主義体制も、戦争に勝ったから正しいわけではない。そこには人としての「正しさ」を頑なに求めようとした者たちの悲劇がある。前作の『ベルリン1933』においても、豊かな生活を求めるあまり、ナチスの側につくことになったマルタが登場するが、彼女にしたところで、べつに犯罪者になりたかったわけではない。幸せになりたい、豊かになりたい、貧困から抜け出したい――そこにあるのは、人としてじつにささやかな願いであり、それはヘレたちにしても同じである。本シリーズをつうじて、ゲープハルト一家は政治的イデオロギーに翻弄されつづける運命を背負うことになるが、そのことで諍い、家族の絆すら危うくなってしまうというのは、考えようによっては大きな悲劇である。

 一作目の主人公だったヘレは、共産党員だった。二作目の主人公ハンスは、共産主義からは距離を置いていたが、ナチスの支配に抵抗するという道を選んだ。そして本書のエンネは、ナチスの支配にあるベルリンにいながら、ナチスの教育から意図的に遠ざけられた環境で育てられた。そういう意味において、エンネは特定のイデオロギーに拠ることのない考え方や感じ方で物事をとらえることができるキャラクターだと言うことができる。そして、そんなエンネが中心人物となっているところこそが、本書の象徴的なところでもある。

 戦争によって灰燼と化したベルリン同様、ゲープハルト一家を長年翻弄してきたイデオロギーもまた、リセットされた。価値あるものとされたものがその価値を失い、常識が常識でなくなった世界で、登場人物たちは無からあらためてすべてを再構築していくしかない。そしてその過程は、同じく敗戦国の国民として生まれた私たちにとってもけっして無関係ではない。時代に翻弄されながらも、人間らしく生きようとさまざまな選択をしてきた人たちの辿った道筋を、ぜひたしかめてもらいたい。(2013.09.14)

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