【理論社】
『ベルリン1933』

クラウス・コルドン著/酒寄進一訳 



 以前読んだ岡本浩一の『権威主義の正体』は、権威がないにもかかわらず、あたかもそれが備わっているかのようにふるまったり、他の誰かの権威を利用したりすることで、人々を非倫理的な行為へと走らせるメカニズムについて論じた本であるが、そうした研究のそもそもの動機となったのが、ナチスのファシズムによって引き起こされたホロコーストであったことは、なかなかに興味深いものがある。二十世紀はいわゆる「戦争の世紀」であったが、同時に人間の善性が終焉した世紀でもある。ナチスのホロコーストは、人間が神の身姿を模してつくられたものであり、それゆえに他の動物とは違う存在である――人間は善を成すことができるという「権威」を崩壊させるに充分なインパクトを、おもにキリスト教圏の国々に印象づけることになった。

 人はその気になれば、いくらでも他人に対して残酷になれるというまぎれもない事実は、私たちにとって耐えがたい恐怖だ。それまで信頼していた他人が豹変するのも怖いが、それ以上に自分自身がそうした行為に走るかもしれない、という可能性を完全に否定できないというのが何よりも恐ろしい。ナチスがおこなったホロコーストは、その可能性を雄弁に物語る出来事であったし、だからこそ研究対象になりえたのだが、今回紹介する本書『ベルリン1933』には、その萌芽を思わせるような不穏な雰囲気が描かれている。

 ハンスには、目の前の光景が現実のものとは思えなかったが、心をゆさぶられるものがあった。まわりの人たちも、ただ見物に来ただけのはずだ。なのに、いきなり右手をあげて、「ハイル・ヒトラー!」と叫び、いっしょに歌いだした。いったいどうなってるんだ? なにに浮かれているんだ?

 二十世紀ドイツの転換期を書く三部作の二作目となる本書では、前作『ベルリン1919』ではまだ赤ん坊だったヘレの弟ハンスが主人公であり、もうすぐ十五歳になる彼はAEG工場への勤務が決まっていた。それはハンスの望んでいた職業ではなかったが、先の大戦で片腕を失い、以前の職に戻れなくなった父親ルディことルドルフと、共産党員で今は失業してしまっている兄のヘレのことを考えると、職にありつけただけで幸運であったし、その給料が家族を支える生命線でもあった。戦争は終わったものの、折からの不況で失業者が町に溢れ、ドイツは帝国から共和国に移行したものの、政権はドイツ社会民主党とドイツ共産党の二大労働者政党に分裂していがみ合うばかりで、有効な政策を打つことができずにいた。そしてその間隙を縫うようにして台頭したナチス党と、その過激な政策の実践者たる突撃隊の存在は、ベルリンを不穏な空気に満たしていた。

 いよいよナチス党のヒトラーが首相となる年の出来事をつづることになる本書であるが、読み進めていって見えてくるのは、当時のナチス党――というよりも、突撃隊と呼ばれる若き党員たちの言動が、かならずしもベルリン市民の好意を得ていたわけではない、ということである。むしろその粗暴で短慮なやり口は、選挙のたびに他政党との抗争を引き起こし、人々から嫌われていたと言ってもいいものがあった。もちろん、父や兄の影響で共産主義的な思想に傾いているハンスを主体とする作品である以上、政敵であるナチス党の悪い点がことさら目立っているだけだ、という見方もできるのだが、ともすると流血沙汰や、死人が出るほどの銃撃戦の中心となる彼らに対する思いは、それこそ白昼堂々と抗争をはじめる暴力団に対する私たちの嫌悪感と似たり寄ったりのものであったろうことは、想像に難くない。

 そういう意味で、前作からハンスの家族が願っている平和と安定は、本書の時代においてもいまだ遠い願いのままとなっている。じっさい前作において政治活動に熱心だった父親は、その後の党の方針に抗議をつづけたあげく、党を除名されており、また新たな政党を打ち立てるといった活動もしていないし、兄のヘレは共産党員ではあるが、やはり旧態依然の党の方針には批判的であり、それゆえに友人であるエレとの折り合いも微妙なものとなってしまっている。ハンス自身は党員ではないし、共産主義としての活動にもあまり熱心ではないが、それでも職場の工場において、ナチス突撃隊に「アカ」だと目をつけられ、嫌がらせや暴力を振るわれたりする。政治理念や思想の違いによる争いが、子どもの世界にまで浸透してしまう哀しさについては、前作でも扱われていたものであるが、本書ではその影響が家族の絆にまでおよんでしまう。ハンスの姉マルタが、ナチス党の男と婚約するというイベントがそれにあたる。

 たとえ貧しくとも、人としてより良く生きるために最大限の努力をつづけてきたゲープハルト一家にとって、ナチス党の方針はけっして受け入れられないものである。だが、いつまで続くのかもわからない極貧の生活からなんとしても抜け出したいというマルタの強い願いが、まったく理解できないものというわけでもない。むろん彼女の選択は、まさに自分の都合の良いものだけに目を向けているにすぎないのだが、本書の読者たる私たちは、他ならぬ自分が彼らのような立場に置かれていたとしたら、と想像せずにはいられない。自分ははたして、そこまで潔い生き方ができるのだろうか、と。

 はっきりと目に見える形でのナチス党の台頭という、暗澹とした時代を描く本書であるが、何もかもが絶望的な雰囲気というわけではない。とくにハンスがミーツェという少女に恋をして、付き合うようになる部分などは、いかにも若者らしい青春を感じさせるものであり、そこには時代に関係なく人の心を動かすものがたしかにあることを物語るものである。だが同時に、そのミーツェがユダヤ人であるという要素は、けっして明るいものではない彼らの未来を暗示してもいる。ふたりがデートしている公園の背景に、失業しおそらくは住む場所すらなくした浮浪者の描写があったり、ふたりで入った映画館にナチスの突撃隊がなだれ込んできたりする展開など、ともすると先行きの見えない、いやむしろより悪くなっていく未来への底知れない不安が常につきまとっていることを示唆している。こうした、時代背景的な「暗」と人々の生きようとする力の「明」を対比させるような描写は、本書の大きな特長のひとつである。

「現実の矛盾は、暴力で解決することはできないだろう。しかし、民衆のあいだの対立は、暴力によって沈黙させることが可能だ。貧困をなくすことはできないが、自由をなくすことは可能だ――(中略)――飢えをなくすことはできなくても、ユダヤ人を追放することは可能だ」

 読者たる私たちは、現実におこなわれたのがユダヤ人の追放「以上のこと」であったことを知っている。そして本書には、その要因となったもののひとつとして、マルタのような「我慢の限界」を迎えていた人々の思いがあったことを教えてくれる。それはある意味で非常に人間的なものであり、私たちのなかにもたしかに宿っている。神によって創られたものとしての人間から、動物の一種としての人間への転換――だが、それを認めつつも、なおより善き人間たらんとする意思は、まさに本書のような時代にこそ試されることになる。そしてそれは、倫理というものがあらためて問いなおされている21世紀を生きる私たちにとっても、けっして例外ではない。(2013.07.06)

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