【理論社】
『ベルリン1919』

クラウス・コルドン著/酒寄進一訳 



 リュドミラ・ウリツカヤの『通訳ダニエル・シュタイン』、フィリップ・グランベールの『ある秘密』、ベルンハルト・シュリンクの『朗読者』――海外翻訳小説を積極的に追っているわけでもない私ではあるが、それでも思わぬところでナチス・ドイツをテーマにした作品に触れることは多い。児童書のなかでさえ、ハンス・ペーター・リヒターの『あのころはフリードリヒがいた』といった作品があるし、もっとエンターテイメント的要素の強い小説であれば、その数はさらに増えることになる。

 ともすると、ナチスという言葉そのものがドイツを象徴するものであるかのように思い込んでしまう勝手さが、私のなかにもあったりするのだが、逆にそれだけナチスという組織の存在が諸外国にあたえた影響が大きかった、ということでもある。しかしながら、ナチス絡みの事柄だけでドイツという国のことを語りつくせるわけではない、というあたり前の事実についても、私たちは留意しておく必要があるのもたしかなことだ。今回紹介する本書『ベルリン1919』は、二十世紀初頭におけるドイツの転換期を描く三部作の一作目として書かれた作品であるが、ここでは第一次世界大戦末期に生じたドイツ革命が主たるテーマとなっている。だが、本書を読み進めてすぐに気がつくのは、その「革命」の内実が、そのセンセーショナルな響きとは裏腹に、国民の大多数の思い描いていたものをかならずしも反映するものではない、という点である。

「問題は、なにを望んでいるかじゃないんだ。それでどうなるかなんだよ。不正との戦いに身を投じる。聞こえはいいが、はたして報われるのかね? 武器をとって戦ったら、それ自体、不正になりはしないかね? ――(中略)――結局、世界の歴史は不正の連続なんじゃないのか?」

 本書の主人公であるヘルムートは、友人からはヘレという愛称で呼ばれる十三歳の少年であるが、彼の家族が住んでいるアッカー通りはベルリンのなかでもとくに貧しい家庭が寄り集まっている区域である。食料は常に不足し、暖を取るための石炭や薪の確保もままならず、ヘレもふくめて誰もが空腹であることが常態となり、ちょっとした病気でも死につながりかねない、という極度の貧困生活に身をおいているのだが、それに追い討ちをかけているのが、長引く戦争である。ベルリンは戦火の渦中にあったわけではないのだが、男手の大半を徴兵された結果として、その労働力に稼ぎの大半を頼っていた貧困層がますます貧困にあえぐという構図がそこにはできあがっていた。

 そこに思いがけず、彼の父親ルディが戻ってくる。もともと社会主義の信奉者であり、戦争によって他の国を植民地化する帝国主義には反対の立場をとっていた彼は、それでもドイツの正義を信じて兵役に志願し、戦場で戦うという選択をした。だがその結果、彼にもたらされたのは右腕を失って除隊されるという憂き目であった。その後ルディは、ドイツの社会主義党派のなかでもさらに過激なスパルタクス団に入り、革命によってドイツ皇帝を退位させ、早急に戦争を終わらせるための活動に身を投じる決意をする。

 長きに渡る戦争に嫌気のさしていた水兵たちの反乱の勢いもあって、革命はいったんは成功する。皇帝は国外に亡命し、退位を表明した。だが、そこで満足することよりもより社会主義革命を推し進めることを選択したスパルタクス団は、しかし逆に団結しかけていた社会民主党派との対立を深め、しだいにベルリンを内戦の渦に巻き込んでいくことになる。

 物語の主体となっているのは、あくまで十三歳の少年であり、それゆえにヘレは本書のなかで起こった出来事の政治的背景のすべてを理解しているわけではない。だが、そんな彼にも食べるものがなくてひもじいという思いは切実な問題であるし、生きていくために母に代わって妹や弟の面倒を見たり、多少なりとも働いたり家事を手伝ったりしなければならないつらさというのも、身をもって体験しなければならなかったことである。それは子どもという無邪気な時代を生きる者にとっては理不尽な境遇であるが、それは同時に当時のベルリン市民たちの声を代弁してもいるのだ。とにかく戦争という異常な事態で人が理不尽に死んでいくのはもうこりごり、というのが、人々のもっとも望んでいたすべてであり、唯一共有しうることであることが、本書を読み進めていくとしだいに見えてくるようになる。

 父さんは新しい国を作るといっていた。工場労働者と手工業職人と農民が治め、戦争でだれも死ぬことのない、みんなが幸せになれる国。そういう人民の国があったら、ごみあさりをする人はいなくなるのだろうか? これほどたくさんの子どもや大人が病気になることもなくなるのだろうか。

 こんなふうに考えられるのは、父をつうじて少なからずスパルタクス団の思想に触れ、その活動のために手助けすることになったヘレだからこそのものであるのだが、そうした思想は理想としては正しいのかもしれないが、およそ子どもらしくないものとも言える。じっさい、ヘレはその思想の違いゆえにギムナジウム(中高等学校)の友人であるフリッツと決定的な仲たがいをしてしまうのだが、もし時代が時代でなければ、けっして起こりえなかった仲たがいであるはずなのだ。世のなかが平和になってほしい、より良い生活をしたいという目的は同じであるにもかかわらず、その方法や主張の違いのせいでどうしても対立してしまうという構図は、たとえば西村健の『地の底のヤマ』における、新旧労働組合間の対立にもつうじるものであるが、親の思想の都合で子どもたちのあいだにまで対立が深まってしまうことに、どうしようもない哀しさをおぼえずにはいられない。

 貧しくて学のない人たちに、社会主義や資本主義の本質はなかなか理解しづらいという事情もある。それ以上に、その良し悪しは理解できても、臆病さゆえに旧来の考えにしがみついてしまう者もいる。そうしたある意味で頑固な人たちは、ヘレの知り合いのなかにも出てくる。問題なのは、彼らが単純にヘレたちの敵というわけでなく、父親との旧友であったり、日頃からお世話になっている隣人であったりする点だ。戦争は終わった。帝国も革命で終わらせた。にもかかわらず、いまもなお戦争のようなことがベルリンでつづいている。いや、戦争というルールがないぶん、それよりもひどい混乱が起きてしまうという悲劇は、まさにヘレの家族を巻き込んだ最大の理不尽であり、不条理だということができよう。

 ヘレにとって人が死ぬというのは、すでに日常の一部として認識していたふしがある。たとえ年寄りでなくても、病気や飢餓が人の命を奪うということは、彼の身近でもかつて起きていたことでもある。だが、それでも自分たちの生活の場において銃声が響き、その暴力で人が殺されるという事態と対峙することはなかった。彼が目にしたのは、はたして狂気だったのだろうか、それともまぎれもない人間としての所業だったのだろうか。二十一世紀になってなお答えの出ない命題のひとつ――なぜ戦争はなくならないのか、人と人とが争い、殺しあうという異常事態をどうとらえるべきなのかを考える発端が、ここにはたしかに存在する。(2013.07.02)

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