【文藝春秋】
『ベルカ、吠えないのか?』

古川日出男著 

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 物語、とくに小説という表現形式で書かれた物語に接して、その結果として何らかの感銘を受けるというのは、読書好きな方であれば一度ならず経験していることだろうと思う。どんな小説にどのような感銘を受けることになるのか、あるいは受けないのかは、それこそ千差万別あってしかるべきものであるが、それでもなお大きく区切りを入れてみると、そこには物語の内容――つまりその筋書きや展開に対する感銘と、物語に登場する人物の個性や行動に対する感銘のふたつに分けることができると言える。だが、物語の内容と、物語の登場人物のふたつを厳密に区別することに、いったいどれほどの意味があるのだろうか。物語とは人間がいてはじめて成立するものである以上、物語と登場人物とは分かちがたく結びついているものであるし、どんなに何気ない日常を描いていったとしても、それが物語であるかぎり、必ずそこには何らかの筋書きが存在する。内容と登場人物、どちらも物語を物語たらしめるのに必要不可欠なものであるとすれば、ふたつともおろそかにすべきではないし、できれば両方とも充実しているほうが、物語としての完成度はより高いものとなるだろうことは、容易に想像できることである。

 しかし、それでもなお、純粋に物語としての面白さを追求していくとすれば、どちらを重要視するべきなのか? 逆に言えば、キャラクターの魅力だけで、あるいはストーリーの魅力だけで、物語は物語として成立しうるものなのか、という疑問――古川日出男という作家の、それまでに書きあげてきた作品を読んできて、ひとつだけ確実に言えることがあるとすれば、それは著者が、純粋に物語としての面白さ、その魅力の源について追求しつづけていこうとしている点である。その結果として、著者特有の物語のスタイルが確立されつつある。登場人物の個性を可能なかぎり排除しつつ、かつそれらの無色透明な登場人物たち――そこには人間であるとか、あるいは動物であるとかの区別さえも希薄になっている――を、時間と空間という軸で巧みに織り上げていくことで、全体としてひとつの壮大な物語を織り成していこうとするスタイルである。

 今回紹介する本書『ベルカ、吠えないのか?』は、言うなればイヌたちの物語である。だが、彼らは物語のなかでけっして主人公などという役割は与えられないし、また擬似人格めいたものを与えられて、あたかも人間のようにものを考えたり行動したりするようなこともない。そしてそれは、彼らと何らかの形でかかわりをもつことになる人間たちにしても、ある意味では同じことである。

 そのタイトルにも冠されている「ベルカ」とは、とある犬の名前のこと。それは1980年8月に、旧ソ連の人工衛星スプートニク5号に乗り込んで宇宙から地球を見下ろし、そして生還をはたしたロシアン・ライカ種の雄犬の名前であるが、同時に当時のソ連の最高指導者であったフルシチョフのロマンチシズムが生み出した、KGBの最高機密に属する特殊工作犬のリーダーに代々襲名される名前でもある。アメリカとソ連という二大大国が冷戦状態にあったなか、他ならぬソ連の英雄でもある宇宙犬の血統によって組織された、対資本主義国家打倒のための軍用犬――ベルカともう一頭、同じく宇宙から帰還した雌犬ストレルカは、それゆえにつがい、それゆえに「宇宙犬」という血筋につらなる子孫を残していくことになるのだが、この隠されたひとつの事実が、本書のなかで展開していくふたつの物語の流れのベースとなっていく。

 物語のひとつは、犬たちの繁殖と交配の歴史である。はじまりは、第二次世界大戦中の1943年、アリューシャン列島のひとつ、キスカ島に取り残された日本軍の軍用犬4頭。戦争の道具として訓練され、しかし人間の一方的な思惑によって捨てられた犬たちは、それぞれが生きるための遍歴を開始する。ある犬の血統は軍用犬として朝鮮戦争やベトナム戦争を戦い、ある犬の血統は北極圏で橇犬としての地位を確立し、ある犬の血統はドッグ・ショウに出場する犬として、その純血にさらに磨きをかけ、ある犬の血統は逆に雑多な種を取り入れつづけたあげく、人の手を離れて野生化し、ある犬の血統はマフィアの麻薬探知犬としての道を歩んでいく。犬たちは複雑な系統樹を織り成しながら、アリューシャン列島から世界各地へその種をばらまいていくことになるのだが、彼らは常に人間たちに使役されるべく役割を与えられ、それゆえにしばしば人間たちの身勝手さにおおいに翻弄されていく。

 この犬たちの繁殖と交配という形は、そのまま著者の追求する大きなテーマでもある「物語の拡散と変容」の形にあてはめることができるものであるが、まさにそれゆえに、犬たちは自身の生を意識することがない。だからこそ、本書では何者かが犬たちを二人称としてとらえ、彼らに語りかけるという特殊な形式で書かれることになるのだが、そんな彼らの立場は、基本的にベルカやストレルカの置かれた立場とほとんど変わらない。言うまでもなく、本書での呼びかけ「イヌ、イヌよ、お前たちはどこにいる?」は、お前たちはどこに「生きて」いる? という問いかけでもあり、それゆえにこの物語の方向性は決定づけられる。すなわち、他の誰かによって「生かされる」のではなく、自分が「生きる」ことの自覚である。

 そして、もうひとつの物語の流れがある。こちらはまさに犬たちが「生きて」いくための戦いを描いたものである。すなわち、ベルカとストレルカを創始とするソ連の特殊工作犬――軍用犬の物語であるが、物語がはじまった時点において、犬たちはもはや人間に使役されるべきあらゆる役割から解き放たれている。

 といっても、人間がまったく登場しないというわけではない。いっけんすると、その登場人物は多くの犬たちを訓練し、使役する立場にあるように思えるが、彼の訓練は、純粋に犬たちが「生きて」いくためのものであり、それゆえにその目的は純粋な「破壊」を目指したものとなっている。

 人間に使役し、人間の利益のために「生かされる」ことからの脱却――ここで言う「破壊」とは、現実的な破壊活動もさることながら、人間によって勝手に押しつけられてくるあらゆる枠組みの破壊、という意味合いが大きい。戦争の世紀だった20世紀を舞台に、第二次世界大戦後も各地に紛争の火種がくすぶり、イデオロギーの違いが結果として犬たちを軍用犬として使役させることにつながっていたのだとするなら、その犬たちの叛乱は、まさにそんな人間社会への叛逆だと言うことができる。

 よくよく考えてみれば、血統であるとか、交配の組み合わせによる品種改良といった概念は、いかにも人間中心のものの考え方でもある。著者の作品には、多かれ少なかれ登場人物のキャラクター性を廃する傾向があるが、本書においてその傾向がことさら顕著なのは、人間であるがゆえにどうしてもとらわれてしまう「人間中心のものの考え方」という色彩を、可能なかぎり薄めていき、犬たちの物語であることを強調していくことで、逆に私たちの生きる人間社会のかかえるある種のいびつさを前面に押し出していこうとする意思である。

 そして、そんな犬たちのなかで、ひとりの少女が人間としての時間を失い、名前を失い、さらには言葉の概念をも失っていくことになる。

「おれはこれから狂う」とベルカに言う。「そして、お前は生きろ」

 本書は犬がまぎれもない犬という動物のひとつとして生きるための物語であり、それをさまたげようとする人間的な枠組みを破壊するための物語でもある。そのような物語を完成させるためには、およそ人間としてのキャラクターの個性や魅力といったものは、むしろ邪魔なだけだとも言える。そういう意味では、本書こそ純粋の物語としての力を発揮すべく挑戦していった作品であり、けっして何ものにも媚びようとしないその態度は、潔しと言うべきだろう。(2005.07.21)

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