【出版芸術社】
『弁護側の証人』

小泉喜美子著 

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 警察官の仕事は犯罪者を逮捕することにあるが、そのためには犯罪の容疑者と目される人物が、本当にその事件の主犯にあたるのかどうかを捜査する必要がある。警察官に与えられている家宅捜査などの「捜査権」は、犯人逮捕のために必要な権力行使のひとつであるが、にもかかわらず、依然として冤罪が起きているという不可解な事実は、とくに私がその手の小説を読むようになってからことさら疑問に思うことのひとつとなっていた。

 もちろん、警察官とて人間である。間違えることだってありえるだろう。また犯罪者が嘘をついて刑事罰から逃れようと画策することだってあるだろう。だが、ネットでその手の検索をかけたときにズラリと並べられる冤罪事件のデータベースの多さを考えたとき、警察側の事件捜査から犯人逮捕にいたるまでの過程で、何か不手際、あるいはもっと根本的な部分での問題が生じているのではないか、という気がしてならないのは、はたして私だけの感覚なのだろうか。

 そう、たとえば警察官の役割が、単純に「犯罪者を逮捕する」ことだけに特化した集団であり、それゆえに、まだ容疑者にすぎない段階でその人が「クロ」であるための可能性を検討し、その証拠がためのノウハウには通じていても、逆に容疑者が「シロ」であるという可能性について、どこまで真剣に考えているのか、という問題である。刑法や裁判制度のことについてはけっして明るくはない私だが、警察が犯人と目される人物を逮捕したとしても、彼はけっして犯罪者として確定したわけではなく(確定し刑を執行するのは裁判官の役目)、あくまで有力容疑者にすぎないということくらいは知っている。よくミステリ小説のなかで警察官が口にする、「犯行の手口? そんなものは犯人を捕まえればおのずとわかってくることだ」といったたぐいのありがちなセリフ――もし警察官がある容疑者を特定したとして、彼が事件の犯人であるという前提ありきで動いているようなところがあるとすれば、そしてそうした前提を有利に進めるための権力行使を無自覚におこなっているのであれば、それはたしかに大きな問題だと言わなければならない。

 これだけ前振りをすれば誰でも予測がつくだろうが、今回紹介する本書『弁護側の証人』は、冤罪事件をあつかった作品である。八島財閥の当主である龍之介殺害の犯人として警察に逮捕され、一審で無慈悲にも宣告された死刑判決――けっして一流とはいえないキャバレーのストリッパーをしていたときに、八島財閥のひとり息子である杉彦に見初められ、見事玉の輿に乗ったミミイ・ローイこと漣子が、一審判決の直前に気づいたほんの小さな手がかりをもとに、アル中でどこか心もとない印象をぬぐえない、しかしじつは凄腕の弁護士である清家洋太郎や、一審のときは被告逮捕の責任者でもあった緒方警部補の協力を得て、鉄壁のように見えた完全犯罪を突き崩し、真犯人をあばくべく奮闘する姿、とくに、ラストの法廷の場でおこなわれる清家弁護士の熱弁をふるうシーンは、ミステリで言うところの謎解きと重なる部分でもあって、本書のなかではもっとも盛り上がるところであり、また冤罪で死刑を宣告された被告が救われる、という要素だけを取り上げると、たしかに社会派的な意味合いの強い作品でもある。だが、こと本書にかぎっていうなら、そうした社会派的な要素だけではけっして書評しきれない、純粋にミステリとしての魅力にも注目しなければ、その本当の面白さを語ったことにはならない。

 それは、たんに殺人事件の真犯人が誰なのか、あるいはその犯行の手口がどのようなものなのか、という部分の謎が重要なわけではない。いくつかの章によって成り立っている本書は、漣子を一人称とする現在を書くパートと、三人称で書かれる過去――漣子と杉彦との恋から結婚、そして屋敷での息の詰まるような生活から殺人事件の顛末までをつづるパートが交互に繰り返されるという構造をとっているのだが、もし本書のそうした構造について、どこか違和感を覚えるようであれば、それはある意味で正しい感覚だと言っていい。ネタバレになるのでここでは多くは語らないが、ひとつだけ言えるのは、本書の中心人物である漣子の立場がどのようなものであるかによって、彼女の言動の意味がガラリと様変わりしてしまう、ということなのだ。そういう意味では、本書は乾くるみの『イニシエーション・ラブ』と似たような構造をもつミステリだと言うことができる。

 さえないストリッパーにすぎない女性が、大財閥の坊ちゃんの妻となる――このある意味典型的な物語構造、それもミステリがらみの設定を聞いたときに、私たちはいったいどんな展開を想像するだろうか。上流階級との付き合いにありがちな、陰湿な選民思想に苦労しながらも、夫との真実の愛を守っていく純愛物語? それとも、あくまで財産を自分のものとするために、あるいは今の贅沢な暮らしを手放さずにいるために、泥沼ともいうべき権謀術策を生き抜いていく図太い女性の生き様? 私たちは本書を読み進めながら、いつのまにか漣子という女性に対して、ある固定観念をいだくことになるのだが、こうした私たち読者の思い込みが、大きく覆されるような展開が、本書の最後に用意されている。そしてそのとき、私たちはそうした思い込みの構造が、そのまま冤罪を引き起こす構造にもつながっていくことに、はじめて気づくことになる。この連動作用こそが、本書最大の特長なのである。

 事件の捜査にあたった警察官は、みずからの誤認逮捕をみとめてはいけないのか? みずから捕えた容疑者の無実が判明したら、それをみとめてはいけないのか? あらためて真犯人を逮捕しなおしてはいけないというのか?

 人がなぜ犯罪に走るのか、その心理は千差万別で必ずしも一定の真実が見つかるわけではないが、発生した犯罪が誰によって、どのようにしておこなわれたのか、については、真実はただひとつである。たとえその真実がどのような結末を引き起こすことになったとしても、およそ警察という組織はただひたすら犯罪の真実を突き止めていくべく努力すべきであって、けっしてあいまいな真実を作り出すべきではない。そして、それは言葉にすればごくあたり前のことではあるが、こと本書のような、たくみに読者の意識をある方向に導くのに長けた作品を読んでいくと、そのあたり前のことがいかに困難か、改めて考えざるを得なくなってしまうのだ。(2005.06.09)

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