【文藝春秋】
『その日のまえに』

重松清著 



 人はいずれ必ず死を迎える。それはけっして誰にもくつがえすことのできない現実であり、またそれゆえに、人の死はけっして特別なことでもない。ただ、今の平和な時代を生きる私たちにとって、人の死というのは目に見えにくいもの、良くも悪くも私たちの日々の生活から隠されたものであり、そのことに無遠慮に触れることについてある種のタブーがはたらいているだけのことなのだ。だが、そんなふうにいくら理屈をつけたところで、たとえば身近にいる人の死、それも、まだ年若い人の死というものは、仮にそれがその人の天寿であったとしても、それでもなお、本来であればもっと長く生きることができたはずだと思わずにはいられないがゆえに悲しいものであるし、またやりきれない思いにとらわれもする。

 およそ人の死というものほど、人の理性を受けつけようとしない現象はあるまい。それはけっきょくのところ、人が死んだらどうなるのか、誰ひとりとしてたしかな答えを出すことができないという不安から来るものである。どのような危機であっても、それがどのような危機であるかがはっきりすれば、少なくとも現実的な対策をとることはできる。だが、誰にもわからないものに対して、人の理性はあまりにも無力だ。だからこそ、ふと思う。死というものが漠然とした、はるか先のこととしてではなく、近い未来に確実に自身の身に起こることとして向かい合わなければならないときにこそ、人は人間としての本当の価値を問われることになるのではないか、と。

 本書『その日のまえに』は、表題作をふくむ七つの短編を収めた作品集という形をとっているが、後半に収められた『その日のまえに』『その日』『その日のあとで』の三作については語り手が同一人物であり、そのタイトルにあるように時間軸についても連続したものとなっている。「その日」とは、イラストレーターの「僕」の妻である和美が死ぬ日のこと。そしてこれが、本書に収められた短編の共通事項にもなっている。つまり、本書に登場する人たちは、いずれも自身か、あるいは自分の身近にいる人が、もう余命いくばくもないという事実を突きつけられ、突如として現実味の増した「死」というものについて、さまざまに思い悩むことになるのだ。

 ひとが危篤に陥ったときはもっとあわただしいものだと思っていた。とるものもとりあえず病室に駆けつけても、臨終に間に合うかどうか。そんな場面を、ドラマや漫画や小説で何度も見てきた。
 だが、現実は違う。時間はゆっくりと流れる。

 たとえば『潮騒』は、ガンで余命三ヶ月と告知された佐藤俊治が、小学校の二年間を過ごした海沿いの町を訪れ、そのときに起きた級友の海難事故のことを、石川というかつての級友と思い出すという話であるし、『ヒア・カムズ・ザ・サン』では、語り手である高校一年生のトシの母親がガンを告知されたことを知ってしまう。『ひこうき雲』では、すでに父親となった語り手が、かつて小学六年生のときのクラスメイトで、長い入院のために転校することになった女の子のところに一度だけお見舞いに行ったときのことを語っているが、病名ははっきりと書いてはいないものの、子どもながらに彼女が重い病気であり、死んでしまうかもしれない、という事実を心のどこかで受け止めているところがある。そして『その日のまえに』の和美を襲った病気も、ガンである。

 人の死の形はいくつも考えられるが、ただひとつの例外をのぞいて、本書の短編に書かれている「死」に共通しているのは、いずれも天寿をまっとうしない死、それも、突然命を奪われるということではなく、数ヶ月という余命を宣告されるという、いわば緩慢な死に向かいつつある人と、その周囲にいる人たちに焦点をあてている、という点である。それは言ってみれば、死ぬための準備期間があたえられたということであり、本書に登場する人たちが、自身に、あるいは親しい人の身に迫りくる死の影に対して、どのように向き合っていくのかを描くことこそが、本書のメインテーマだということでもある。

 人はいずれ死ぬ――それはまぎれもない真理であるかもしれないが、まさにその死と直面しなければならない立場の人たちに、同じ言葉をぶつけるだけの勇気は、私にはない。小学生、高校生、あるいは成熟した大人と、立場はさまざまであるが、誰もがその理不尽とも言うべき死の宣告を前にして、死とは何なのか、なぜ人は死ななければならないのか、そしてそれまでの生は何だったのか、というある種のタブーと向き合い、自分なりに考え、思い悩むことになる。それは言うまでもなく重いテーマであるが、本書に登場する人たちは、いずれもいろいろな悪あがきをしながらも、最後には何らかの着地点を見出したかのように、それまでとは違った、しかしまぎれもない日常をおくることになる。

 もちろん、誰もが簡単に「死」を受け入れたわけではない。『ヒア・カムズ・ザ・サン』のトシなどは、母親のガンが治ってふたたびかつての日常を迎えることができると信じつづけているが、そうした人たちのその後――おそらく人間の生死に対するある種の答えともいう何かが、じつは『その日のまえに』『その日』『その日のあとで』の三作品のなかで受け継がれていくところがあり、そのあたりの短編どうしのつながりが、そのまま死にゆく人から残されていく人へと受け継がれていくものとしてつながっていく構成となっている。教訓めいたものは何もない。ただ死を受け入れた日常があり、それは「その日」のあとにもずっとつづいていく。そして残された人たちは死んだ人たちのそれまでの生が、けっして無意味なものではないこと、そこから受け取った何かがあることを、たしかに知ることになる。死は悲しいものではあるが、何の準備も心構えもなく、唐突に死んでしまうことと、死ぬまでに充分な準備期間のある死と、はたしてどちらがより良いものなのだろう。

「終末医療にかかわって、いつも思うんです。『その日』を見つめて最後の日々を過ごすひとは、じつは幸せなのかもしれない、って。自分の生きてきた意味や、死んでいく意味について、ちゃんと考えることができますよね。あとにのこされるひとのほうも、そうじゃないですか?」

 じつは、本書の短編のなかでただひとつ、『朝日のあたる家』という作品だけが、突然死という形で夫をなくした妻とその娘の話となっている。夫はある日、何の準備期間もないまま唐突に死を迎えてしまうのだが、彼女のその後の日常は、いわば夫の死をどう受け止めていくか、という命題と結びつかざるをえないものだった。そういう意味で、やはり彼女もまた同じように「死」と向き合うことになったと言うことができる。そして『ひこうき雲』のなかでは、かつてのクラスメイトの死と対比されるかのように、九十歳を迎え、アルツハイマーを発症してなお生きつづける祖母が登場する。なぜ、死んでしまうのか。なぜ、生きつづけるのか――けっして答えの出ることのない、しかしいずれは向き合わなければならない問題が、本書のなかにはたしかにある。(2006.11.06)

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