【集英社】
『桃山ビート・トライブ』

天野純希著 



 以前、書評千冊突破記念と称して自分なりの文庫百冊を選出したことがあるが、じつはこのイベント、ずいぶん前からたびたびやってみたいと思っていながら、いざ選び出す段階になるとなかなか納得のいく内容にならず、けっきょく投げてしまうということを繰り返していたものでもあったりする。原因はいくつかあるのだが、そのうちのひとつにジャンル分けの問題があった。せっかく百冊も選出するのだから、SFやミステリー、歴史小説や恋愛もの、青春ものなど、いろいろなジャンルから広くまんべんなくチョイスしたいという野望があったし、ジャンル分けをすることで、本を読む側の便宜もはかれるだろうという意図もあったのだが、選んでいくうちに、どうしても既存のジャンルでは分類できない作品がいくつも出てきてしまうのだ。

 既存のジャンルのいずれにも属さない、ということは、その作品がそうしたジャンルづけでは収まりきらない何らかの広がりをもっている、ということでもある。それは、言ってみればまさにその作家だからこその作品、作家名そのものがひとつのジャンルであるという他にないものであり、自分なりに世界を再構築するという意味で、それらの作品は成功していると言うことができる。

 人間は常に何かを秩序づけ、そのために多少強引でも枠をつくってそこに物事をあてはめ、分類づけようとする。新しく発見されたものに対してまず名前をつける、というのはその典型的な例であるが、世の中というのはいつの時代においても、そうした既存の枠や秩序づけからはみ出してしまうエネルギーを内包しているものだ。そして、そうしたエネルギーを爆発させるのは、世間知らずで、だからこそ柔軟な発想を自由自在に飛躍させる若者の特権でもある。本書『桃山ビート・トライブ』には、日本の安土桃山時代を舞台とした時代小説でありながら、まるでそうした時代性を超越していくかのような荒削りな、しかしこのうえなく瑞々しい物語が流れている。何しろ、本書の登場人物たちが行なっているのは、現代のジャムバンドそのものなのだ。

 なにもかもが、掟破りだった。――(中略)――舞台上で演じられているのは、猿楽でも曲舞でもややこ踊りでもない、分類不可能ななにかだった。

 大きく序破急の三章と、「イントロ」「アウトロ」と名づけられたプロローグとエピローグによって構成されている本書は、現代風にいうなら、それぞれ音楽や踊りの才能をもつ四人の若者が、とあるきっかけでお互いに知り合い、同じバンドメンバーとしてゲリラ的ライブを繰り広げていくというものであるが、そんな彼らに共通するのは、いずれも世の中のつまはじき者、既存の社会の仕組みにどうしてもなじめず、枠のなかに収まりきらない自分自身をもてあましたあげく、ついつい後先考えずに突っ走ってしまうというその性格だ。

 真面目に生きたあげく無様な死に方をした侍の父に反発し、スリや置き引きといった小悪党として生きてきた藤次郎、たぐいまれな舞の才能をもちながら、より活発な踊りで自己表現したいという思いを抑えきれないちほ、笛職人の息子として生まれ、笛職人になること以外の道などなかったにもかかわらず、自分でも笛を吹きたい、笛役者になりたいという一心で家を飛び出した小平太、宣教師の小間使いとして日本に渡り、織田信長の小姓として召抱えられながらも、時代の波にもまれて紆余曲折のはてに、船場の人足としてはたらき続ける黒人の弥介――それぞれがそれぞれの夢や事情ゆえに、公権力が介入できない無主の地とされる京の河原におもむき、既存の一座にくわわって演奏はするが、金持ちや権力者におもねるような、馴染みはいいがあたりさわりのない演目しかやろうとせず、それに合わせることを強要する一座のやり方は、彼らがさんざん嫌ってきた社会の有り様と同じであり、そうである以上、彼らがいずれ一座と反発してしまうのはごく自然な流れである。そして、誰か別の人間になっても成り立つようなものではなく、まさに自分たちでなければできない何かを演じたい、という思いで結びついた四人が行き着いたのが、荒削りでありながら躍動感に溢れ、即興であるがゆえにけっして同じものを二度と演奏することのない、思いっきり型破りなジャムバンド形式だというのも、彼らのそんな性格を象徴するものである。

 上から押さえつけられてくすぶっていた若者たちが、ある分野でその才能を開花させ、溢れる若さを爆発させる勢いで一気にスターダムへとのしあがっていく、というある種のサクセスストーリーは、本書を構成する大きな要素であるが、ただそれだけを目的としているのであれば、極端な話、時代小説である必要はない。本書が安土桃山時代、それも、豊臣秀吉が天下人となった時代を舞台としたのは、その時代が戦国時代の混沌から天下統一の秩序への転換期であったというだけでなく、その秩序をなかば強引に押しすすめていこうと統制や規制がことのほか厳しくされた時代でもあったことが大きい。じっさい、この時代に行なわれた検地や刀狩といった政策は、農民たちを土地に縛りつけるためのものであったし、本書のなかでも、ある種の治外法権であったはずの河原への締め付けがよりいっそう厳しくなり、藤次郎たちの一座も危機にさらされていく。だが、そうして抑圧されればされるほど、彼らの性格上、権力者への反発はそれに比例して大きく、激しいものとなっていく。藤次郎たち主要人物たちの物語上の役割――このうえなく自由であり、何ものにも縛られないというその属性をもっとも効果的に表現できる場として、本書の時代はうまく機能していると言える。

 三味線と笛という純和製の楽器にアフリカの太鼓、さらにボーカルの代わりに踊り子を配置するというちぐはぐなバンドが、観客を巻き込んで熱狂させるその演奏の様子や、お調子者の藤次郎や、天然で大食らいのちほといったキャラクターの、それぞれクセがあるのにどこにも共通点のない、ちぐはぐな性格がもたらす漫才めいたやりとりも楽しい本書であるが、そうしたちぐはぐさもまた、あらゆる既存の枠にはまらないという本書のテーマに即したものである。そしてそんな彼らの型破りな演奏は、次第に彼らの周囲にいる人たちにも影響をおよぼしていく。彼らのスポンサーとしてイベントを計画する林又一郎、役所に使える武士でありながら彼らのライブにのめりこんでいる田中与兵衛、そして文化的素養があり、芸人に理解を示しながらも、秀吉の甥という宿命にがんじがらめに縛られている豊臣秀次――いずれもなんの接点も共通点もない者たちではあるが、藤次郎たちの演奏に何かを感じ、そのことで一様に心の変化をおよぼされていく、という一点でひとつのつながりをもっている。ひとつの小さな点が、物語が進むにつれて大きな輪となって広がっていくというダイナミズムもまた、本書を読む醍醐味である。

 新しく生まれてきたものというのは、すでにあるものと比較すれば、常に奇異の目で見られがちだ。だが、それゆえに備えている分類不能のエネルギーは、ときに人々を不安にすると同時に、あらたな可能性を見出すことにもなる。そして既得権益のうえにあぐらをかく者たちではなく、あくまで庶民を巻き込む形で生じるそうした新しい潮流というのは、どれだけ押さえつけようとしても押さえることなどできないし、その気になれば壁などいくらでも飛び越えていってしまう。今の世の中にどうしようもない閉塞感をいだいている人たちにとって、本書はこのうえない爽快感をもたらす作品となるに違いない。(2008.06.02)

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